バグワン・シュリ・ラジニーシ

バグワン・シュリ・ラジニーシBhagwan Shree Rajneesh、Oshoラジニーシ、本名:モーハン・チャンドラ・ジャイン、1931年12月11日 - 1990年1月19日)は、現代インドに生まれた宗教的マスター、神秘思想家、瞑想指導者で、世界的影響力を持っている。21歳の大学生の時、人間意識の究極の段階に達して光明を得たという[1]。ラジニーシ自身は、宗教的ではあるが宗教の創始者ではない[2]、と言っている。宗教的とは信仰を土台としない内面的探究や精神世界の求道であり、個人の次元でしかないから宗教組織からは全くの圏外におかれる[2]。 真理の探究こそ第一の優先事項である、人間は全実存をかけて、まず第一に自らの生の源泉を探究することにその関心を寄せねばならない、と言っている[3]。 死の1年程前に自らの尊称をOshoラジニーシに変えており、現在はOshoとして知られている。

Oshoラジニーシ

ラジニーシは大学で哲学を学び、1960年にはジャバルプール大学教授となった[1]。1966年になると、大学を辞職し、インド各地で講話を始めた[1]。ジャイナ教、ヒンドゥー教、(ユダヤ教の)ハシディズム、タントラ、タオイズム(道教)、スーフィズム、キリスト教、仏教などの主要な伝統宗教、多様な東洋や西洋の神秘家、ウパニシャッドやシーク教等の聖典について語り[4]、すべての組織宗教の形骸化を痛烈に攻撃し、宗教的戒律は人間を鋳型にはめてしまうものだと非難した[1]。西洋の先進的なセラピーと東洋の修行法を並列的に扱って統合し、数多くのセラピーや瞑想法を創始し、精神世界のカリスマ的存在として多くの西洋人・先進資本主義国の人間を引き付けた[5][6]。アメリカに移ってからはオレゴン州ワスコ郡に巨大なコミューン、ラジニーシプーラムを建設し[7]ロールス・ロイスを90台以上所有していた[8]時期もある。

思想と活動編集

 
ロールス・ロイスを運転するラジニーシ

ラジニーシは21歳の時に悟りに至ったという[9]。彼は第二次世界大戦後独立した20世紀インドにおいて、最も論争の的になった人物である[10]スピリチュアリティの本質を統合する哲学を雄弁に語り、世界の諸宗教の神秘主義的伝統を紹介し、広く称賛された[11]。自らの思想を弟子に講話として語り、講話録を残した。現在入手可能な講話集だけで200冊以上、3500時間以上の録画ビデオがある。魅力的な語り手で、白いロールス・ロイスで登場し、多くの人を魅了した[12]

ラジニーシによれば、人間の究極的な目的は光明(enlightenment)を得ることである[13]。それが人々の真の個性を全面的に開花させ、自己が宇宙全体から分離していない意識状態をもたらすのだという[13]。光明を得るための最大の障害となるのが人間の自我(ego)であり、これが人々を「本来の自分」から分離させてしまう虚偽の実存であるとラジニーシは捉える[13]。自我を落とすために必要となるのは、いかなる価値判断もせずに自己の信念や思想、感情のパターンを見守り続けていくことであるといい[13]、過去や未来に煩わされることなく「いま、ここ」で完全に覚醒することを強調した[13]

講話の題材は、東洋・西洋の思想・宗教、現代西洋科学、心理学等で、それに独自の解釈を加え、ジョークやコメントを添えている[14]。取り上げる多様な宗教や思想はそれぞれの体系があるため、ラジニーシの講話には、全体としてみると矛盾があるように見え、講話で説かれる教えは時に異なっている[14]かのようである。彼自身は矛盾を自覚しており、悟りは語ることができず、宗教は隠喩のみによって表現できるため、矛盾はすべからく生じるとしている[14]。講話の一つ一つのエピソードはわかりやすいが、全体としてみるとはっきり理解しにくい点が、むしろインテリの弟子たちにはチャレンジしがいのある魅力的なものに映った[15]

悟りと瞑想・セラピー編集

講話全体を見ると、ほとんどの西洋人は社会や教育によって抑圧されているため、その拘束力を取り除き、抑圧により過去に形成された「エゴ」である「わたし」を捨て去り、「自然であること」によって真の自己に至らなければならない、ということが説かれている[16]

決まった一つの体系を多様な個々人に与えることは「自然であること」に反するので、それぞれが自分に合ったセラピーを行い、エゴを取り除いて、自分に合った瞑想法で「悟り」に向かうことが目指される[16]上座部仏教ヴィパッサナー瞑想や、禅宗座禅チベット仏教の観想法などをアレンジし、100以上の瞑想のテクニックを開発した[17]。東洋の伝統では、静かに座って思考を観照することが瞑想であったが、ラジニーシは思考や感情をより観察しやすいように体の動きを瞑想の中に取り入れた[18]。1時間ほどの瞑想を10~15分のユニットに分けて、動き、発声、感情の吐露を加えるといったアレンジの傾向は、セラピーの影響がうかがえる[17]。ラジニーシが作った瞑想法で一番有名なのは、深くて速くて乱雑な呼吸を行い、泣いたり叫んだりして感情を吐き出し、「フー、フー」というマントラ風な音を出しながらジャンプし、突然の静止し、やがてダンスという1時間の「ダイナミック瞑想」である[19]。”瞑想 meditation”という言葉は、“薬 medicine”、“医学的な medical” などと同じ語源から来ていて、医学というのが医療的なものであるのと同じように瞑想もやはり医療的なものであり、それは瞑想者を<全体>にし、統合し、健康にしてくれる[20]。とラジニーシは言う。

精神医療現場で導入されている瞑想法編集

米国ダラスに在住する精神科医Vyas, A博士は、ラジニーシが編み出したダイナミック瞑想の臨床効果を調査するために、パイロットスタディを行い論文にまとめた。本研究は治験者が実際に瞑想を行い、ペアワイズ比較を用いて行われた。結論として、攻撃的行動、抑うつ状態、形質的危険性、感情的な疲労、役割の過負荷、心理的な緊張の大幅な減少が見られたと実証した。そして、心理療法として使用することができると示している。[21]

OSHO公式サイトの記事からの抜粋「ドイツのファフクリニーク・ハイリゲンフェルトという、精神療養所を運営しているヨアヒム・ガルスカ博士は、『ダイナミックは、私が知っているうちでももっともパワフルなテクニックのひとつです』と彼は言う。 精神医学者であるライナ・ファルク博士は、OSHO Dynamic Meditation®を、毎月21日間、患者たちに提供している」[22]

2015年3月1日から2015年3月21日までの21日間、OSHO Dynamic Meditation®の実験研究が行なわれた。インド、ラックナウで行われたこの研究は、20~50歳の健康なボランティア20名(男性14名、女性6名)が参加し(4名は健康上や一身上の理由で脱落)血漿コルチゾール値(ストレスに関与し、過度なストレスを受けると分泌量が増加し、抗ストレスホルモンとして恒常性の維持に不可欠な物質)を測定し、このアクティブ瞑想が抗ストレス効果を生み出すと結論づけた。この結果は、National Center for Biotechnology Information, U.S. National Library of Medicineのサイトにアーカイブされている。[23]

タントラとセクシャリティ編集

タントラ的な教えが、最も意見が分かれ、インドでも西洋でも批判されてきた[11]。インドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると説いて議論を巻き起こし、身体を重視するホリスティックな教え、タントラ的な「悟り」とそこに至る方法を教えた[5][24]。 セックスは石炭であり、一方ブラフマチャリア〈性超越〉はダイヤモンドだと言いたい、性超越はセックスの変容だ[25]。 と言った。もし人間がセクシャリティを正しく理解するなら人間はセックスを超える事ができる、人間はセックスを超えるべきだ[25]、と説いた。ラジニーシはセックスのオーガズムは「悟り」のエネルギーに似ており、悟りのエネルギーの疑似体験になるので、むしろセックスは悟りにプラスであるとした[26]。彼は性の4段階のモデルを作り、男女のエネルギーがエクスタシーによって合一する最終段階に至ることで(または、これと他の方法との組み合わせで)、覚醒することができると教えた[27]足沢一成によると、ラジニーシの「悟り」とは、「何らかの真理を知ることではなく、セクシャリティにより個と個に一体感が生じるように『全体』である『エネルギー』に個が流れ込む状態そのものを経験すること」を意味しているようである[26]。悟り自体を知った人は、セックスで得られるような些細な快楽には興味を持たなくなるとしている[26]。 セックスにいつまでもとどまっているべきではないが、セックスを踏み台として用いることができる。それがタントラの意図するところだ、と彼は説いた[25]。ラジニーシは性的欲求の抑圧こそが精神的不調の大きな要因であると考えたため、一部のセラピーは全裸に近い姿で行われ、周辺社会から奇異な目で見られることになった[28]。瞑想に入るための準備としての多様なセラピーや、悟りを目指す多様な瞑想を開発して指導した。その思想は、多くの近現代のインドの聖者と同様に、ヒンドゥー教で伝統的な不二一元論と同じ構造を持つと評される[15][29]。ラジニーシ自身は「ブラフマンとアートマンの合一」あるいは「全体と個の合一」という考え方が自分の思想の中心であると断言しておらず、注がれるべき「エネルギー」が何であり、どこから来るのかということも断言していないが、足沢一成は、彼の断定を避ける態度は「自然であること」の重視と関連があると述べている[16]

指導・師弟関係編集

ラジニーシは、師弟関係を肯定し、それが光明を得る手助けになると主張する[30]。ラジニーシは「光明を得た」存在が人々の意識変容を促すというのだ[30]。彼の弟子達はサニヤシン(sannyashin)と呼ばれている[30]。「サニヤシン」という語はもともと、宗教的慣例に従って家庭と物質世界を棄て、僧侶になった者を指したが、ラジニーシは現世肯定的なサニヤシンのあり方を強調した[30]。サニヤシンになるということは、何か新たな信念体系を獲得することでもなければ、個人的な所有物を放棄することでも、また特定の人物に追従することでもないという[30]。サニヤシン(出家者)は本来俗世の事柄をすべて捨てるものだが、「自然であるなら何を抱えていてもよい」という考えで悟りを目指すとし、弟子を「ネオ・サニヤシン」(Neo-Sannyas)と呼んだ。ネオ・サニヤシンは世俗の事柄を捨てず、性的な禁欲もない[31]。弟子たちはごく一時期だけラジニーシーズ(Rajneeshes)とも呼ばれた[32]こともある。

初期にはヒンドゥー教の伝統的な儀礼である「ダルシャン(Darśana)」を取り入れ、弟子たち一人ひとりに接見していた[17]。弟子との関係で最も重要なのは、グルから弟子へ直接エネルギーを与えるシャクティーパット(エネルギー・ダルシャン)だった[11]。ラジニーシは、「グル」は「全体」と結びつき、「聖なるエネルギー」に満たされているとし、そのエネルギーを弟子に与えることができ、弟子にエゴがなければエネルギーが注ぎ込まれるとした[33]。ダルシャンではライブ演奏や歌、踊りを行い、女性の「伝達者」を用いて弟子にエクスタシー的状況を経験させるような強烈な儀式を行い指導していたが、接見する人数が増えた第1期プネー時代にはグループ単位になって重要性が薄まり、アメリカ時代には中断している[17]。ラジニーシは、弟子がグルからエネルギーを与えられるために必要なグルへの絶対服従を、「明け渡し」と表現している[33]

ラジニーシは「明け渡し」について語っている。「私に関する限り、マスターのどの古いカテゴリーにも属さない。私は新しい始まりだ。古いマスターたちは明け渡すことを要求したという意味で――。私はあなたがたに何も要求しない。私にとっては、明け渡すことは微妙な精神的隷属だからだ。私は、私の仲間たちが自由に生きる個人であってほしい。愛はどんな明け渡しよりもはるかに大きな現象だ。明け渡しはマインドのもの、明け渡しはひとつの努力だ。愛はハートのもので、努力ではない。私はあなたが個人であることを消すためにここにいるのではない。あなたのエゴを消すためにここにいる。それにはどんな明け渡しも必要ない。必要なのは、あなたの側での深い瞑想的理解だ」[34]。サニヤシンたちは、理想的にはラジニーシの思想に服従する必要はない[30]。自らが経験したことは自己の現実となるのであり、そこには信じたり従ったりするべきものではないからだ[30]

女性編集

「直観力、受容力、献身などの美徳ゆえに、女性はより容易にグルに従い、瞑想の微妙なエネルギーに対して自らを開くことができる」とし、インドでは無知で不浄とされ、社会的にも霊的にも劣位に扱われる傾向のある女性を霊的に評価し、管理者として実務面もすぐれていると考えた[35]。ラジニーシは講話で、「母親になるという事は、この上もなく価値あるものを作り出している。あなたは生命を彫刻し、生命に形を与えている。子育ては深刻にならず陽気に受け止める事。あなたが深刻になってしまったら子供はあなたの深刻さを感じ、押しつぶされてダメになってしまう、子供に重荷を負わせてはならない。子供があなたを母親として選んでくれたことに感謝し、子供を通して自分の女性を開花させなさい。母親になることは祝福だ」と語っている[36]

来歴編集

初期編集

1931年12月11日、中央インドのマディヤ・プラデーシュ州の、人口700名ほどの小さな田舎町クチワダに、ジャイナ教の布商を営む商人の家に生まれたといわれる[37]。ジャバプール大学で哲学を専攻した[24]。大学生だった1953年3月21日に、人間の意識の最終的な段階に達し、光明を得たという[24]。その後、ジャバルプール大学の哲学教授となり、1960年代にはインド各地で講演し、「すべての行為や感情を抑圧することなく、ありのままの自分を受け入れ、瞬間、瞬間をトータルに覚醒することが必要である」と説き、宗教批判とともに、インドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると主張した[24]。66年には大学を辞職して講演に専念し、69年に超越瞑想運動の指導者マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの招待で、初めて西洋の大衆に向けて英語で語る機会を得た[24]

ムンバイ時代の誕生祭を記録した動画

1970年代より講演者からマスターへと移行し、弟子を受け入れるようになった[24]。また呼吸への働きかけや身体の自由な動き、発声などを伴い、心理的な解放を志向した動的な技法(アクティブ・メディテーション)を編み出し、71年からの4年間は定期的に公共施設で瞑想キャンプを開いている[24]

インド 第1期プネー編集

ムンバイでの一時期を経て、1972年にバグワン・シュリ・ラジニーシと改名、その直後にプネーにアシュラムを設立し、拠点に定めた[5]。1971年、ボンベイの南東130キロに位置する高原都市プーナの郊外に2万平方メートルの敷地をもつアシュラムが開かれた[18]。この頃から、サニヤシンのなかで欧米人が圧倒的な割合を占めるようになっていく[18]。国外からの25万人ものメンバー(うち3000人ほどが定住)を集め、ラジニーシの周辺にはコミューン的な状況が生まれた[5]。当時は、インドを旅していた欧米のヒッピーや精神世界の探究者たちが旅の途上でラジニーシと出会い、惹かれていった[18]。それに続いて、ヒューマン・ポテンシャル運動にかかわっていた相当数のセラピストたちが、スピリチャアリティの新たな発展の可能性を求めてラジニーシのもとに集まりだした[18]。彼のもとを訪れるセラピストの数が増えるにつれて、今度は新しい心理学の流れに興味を持つ人がたちがアシュラムを訪れるようになった[18]

 
プネーにて、1977年

1975年に日本でも講話録ニューズレターが発行され[32]、日本でも知られるようになり、1977年に最初の邦訳講話録である『存在の詩』が精神世界系の出版社めるくまーるより出版された。本書は1997年までの20年間だけでも、4万9千部売れた[38]という。なお翻訳家・著作家の吉福伸逸は、ラジニーシの思想は当初アメリカなどより日本の方が先行して広まっていたと述べており[39]、それがニューエイジ/トランスパーソナルムーブメントにおけるラジニーシの引用の少なさを説明している、と考えている[40]吉福伸逸は、Oshoのグループは、トランスパーソナル心理学、ニューサイエンス、ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメント、ホリステッィク・ヘルス・ムーブメントに関連した宗教のなかで、唯一、もっともニューエイジ的な感性に近いグループであった、あれだけの実験を提供してくれたグループはどこにもなく、初期のエサレンのような活気が、プーナのOshoアシュラムにはあった、と述べている[41]

プネーの住民にとってラジニーシアシュラムは「インド社会の公序良俗に反するヒッピー」であり、対立もあり、行方不明になった弟子もいたという。[42]。このころの弟子には、地元の精神病院に収容されるものもあったらしい[42]。プネーの当局は不法滞在外国人取締りを厳しくしたが、インド滞在にビザがいらないイギリス人と偽装結婚する信者もいた[42]。多宗教国家であるインドでは、宗教対立を引き起こす言動は犯罪であり、インド中央政府はラジニーシの伝統宗教批判を犯罪と判定して起訴の準備を進めていた[42]。このころラジニーシはアレルギー症状や糖尿病の悪化や背中の痛みで講話を休み、沈黙するようになっていった[42]

アメリカ オレゴン州ラジニーシプーラム編集

1981年の春、ラジニーシは長年患った喘息と糖尿病のため、講話を含む公共の場での発言を一切しなくなった[18]。アシュラムの実権は、ラジニーシの個人秘書であったインド人女性マ・アナンド・シーラに委ねられることになった[18]。シーラを中心とする運営スタッフは、中央オレゴンに6万4000エーカー(東京23区の面積に相当)の荒涼とした土地を購入し、81年8月にはラジニーシをそこへ招待した[18]。サニヤシンたちは、その中にラジニーシプーラム市を建設した[18]。アメリカでは、沈黙を守るラジニーシに代わり、アメリカの就労権を持つシーラが中心となった[43]。ラジニーシは大部分の弟子と接触しなくなり、インド時代の弟子たちの中には不満に思い去っていったものもいた[43]

 
ラジニーシプーラムの入り口
 
ラジニーシに奉げられた石碑

警察活動を含む自治体の様々な行政活動は、コーディネーターによって実質的に管理・運営されていた[44]。ラジニーシプーラム市の市長はコミューン事務長、助役・出納長はコミューンの出納係、市議会議員は5名すべてサニヤシンであった[44]

 
ラジニーシが運転するロールス・ロイス
 
ラジニーシプーラムに作られた空港。自家用ジェット「エア・ラジニーシ」と書かれた。
 
「ラジニーシ・ブッダフィールド・トランスポート」と書かれた黄色いバスの数々
 
ラジニーシプーラム(1982年)
 
ラジニーシプーラムでの祭りの様子(1983年)
 
ラジニーシプーラムに建設されたゲストハウス

ラジニーシプーラム最盛期、弟子たちと接触の機会を持つために、ラジニーシはロールス・ロイスに乗って、視察の名目でラジニーシプーラム内を一周するようになった。コミューンは次々とロールス・ロイスを購入し、最終的には90台以上になった[8]。ラジニーシは、「96台のロールス・ロイスが必要な理由など全くない。アメリカ全体にあらゆる超大金持ちのあいだに嫉妬をかきたて、もし彼らに十分な知性があったなら、私の敵になるよりはむしろ、私の所に来て自分の嫉妬を落とす方法を見つけようとしただろう。嫉妬こそが彼らの問題だ」と語った[45]。約2000人のサニヤシンが、近隣の人々と日常的交流のない孤立した生活を送っていたが、彼らは1)永住者、2)長期滞在者、3)訪問者のカテゴリーに分類された[18]伊藤雅之は、ラジニーシ自身も閉鎖性・統制性が強まる流れを半ば容認する形で、運動が展開していったと述べている[46]

 
「ラジニーシ市」の看板(1985年)

1982年3月に一部の信者が隣接するアンテロープ町に移り、教団による乗っ取りを恐れた町民たちは町を廃止してワスコ郡の直轄地にしようと住民投票を行ったが、すでに弟子達の数が元々の住民の数を上回ってしまっており、乗っ取りを防ぐことはできなかった[47]。町名は「ラジニーシ市」に変わり、ラジニーシプーラム市の姉妹都市とされ、首長・教育委員長などの要職が次々に弟子達に変わり、町全体で徹底した「ラジニーシ化」が進められた[47]。地域の役所をコミューン内に移転したが、住民の出入りは制限し、こうした非教団員への差別行為を住民に何度も起訴され、裁判で負け続けた[48]。アメリカ以外の国籍の弟子たちは長期滞在のために、アメリカ国籍の弟子と偽装結婚するようになり、ラジニーシは自身の短期滞在ビザを宗教家のビザに切り替えるようアメリカ政府へ要求したが、叶わなかった[48]。シーラは路上生活者を利用して票を確保し弟子を裁判官にしようとするなど、司法分野にも手を伸ばした[49]。コミューンの活動は注目を集めて新聞やテレビで大きく取り上げられ、世論の反発は激しさを増した。全米で放送され、オレゴン州政府の対応に注目が集まり、次第に州政府が対応せざるを得ない状況になっていった[50]。アメリカの憲法では、「宗教団体が自治体の形態をとる」ことは認められず、このような自治体に交付税、贈与税の交付を含む財政上の助成や補助を行うことは、納税者にとって信徒でもないのに献金を強要されるに等しく、違憲である[51]。1984年3月、オレゴン州法務長官デイビット・B・フローンマイヤー(David B. Frohnmayer)は州を代表し、ラジニーシプーラム市及び同市の公務員及び住民等を被告とし、ラジニーシの宗教的基盤と市の運営の関係がアメリカ合衆国憲法修正第1条の国教樹立の禁止条例、政教分離原則に反しており、ラジニーシプーラム市の設立は無効であるとして訴えた[52][53][54][50]

シーラはサルモネラ菌を秘密裏に培養し、1984年に郡庁のあるザ・ダルズのレストランで10カ所のサラダバーにサルモネラ菌を噴霧し、751人が体調不良になり、45人が入院したが、事件当時は集団食中毒だと考えられていた。のちの警察の調査で教団の選挙妨害計画の実験、サルモネラ菌を使ったバイオテロという結論が出ている[49]。この事件は近年のアメリカ史上最大の生物攻撃だと言われる[55]。サルモネラ菌はラジニーシプーラムを視察に来た郡の委員二人にも使用されたという[49]

ワールド・ツアー編集

ラジニーシは再び講話を行うようになり、弟子たちに話すようになった[56]。1985年にシーラはアメリカ政府による逮捕が確実という情報を受けて西ドイツに去り、ラジニーシは彼女が去った翌日記者会見を開き、シーラが数百万ドルを盗み、彼と数人のネオ・サニヤシン、地元の政治家を殺害しようと企てたと非難し、彼らは自分の信奉者ではなく旅の同行者に過ぎないと主張して、ラジニーシ運動のグルとしての役割を否定した[57]

ラジニーシは活動の責任はすべてシーラにあるとインタビューなどで語っていた[56]。しかし、そう主張したからと言って、アメリカ政府の追及を逃れられるわけでもなく、ラジニーシも逮捕を予想して85年にアメリカ国外の南へ立とうとした[56]。インド脱出同様、同行する側近以外の弟子達には何も知らされなかった[56]。燃料補給に寄ったノース・カロライナ州の空港でラジニーシは逮捕状なしに逮捕された[56]。彼らは逮捕時に、6万ドルほどの現金と100万ドル相当の宝石、高級腕時計、拳銃を持っていた[56]。シーラは西ドイツで、シーラと対立していたラジニーシの主治医デヴァラジ(大量の薬物をラジニーシに処方していた人物)の殺人未遂・55億ドルの横領・近隣レストランでのサルモネラ菌の使用・ラジニーシとその世話人の部屋の盗聴・公共施設の放火・移民法違反の容疑で逮捕された[56][46]。サルモネラ菌を使ったバイオテロ事件では、シーラとサルモネラ菌製造の中心だったマ・アーナンダ・プジャ(ダイアン・イヴォンヌ・オナン)が主犯として逮捕され、懲役20年の実刑判決を受け服役した[58]。シーラはバイオテロ事件で有罪を認めている[59]司法取引を行い、司法取引で偽装結婚教唆の罪を認め、ラジニーシはシーラが問われた殺人未遂等の容疑との関係は問われなかった[56]。チャールズ・ターナ―、当時のオレゴン州のための米国の弁護士であり、起訴の遂行に対する責任のある男は、逮捕状なしでOshoを逮捕した後、記者会見を催した[60]。記者会見でターナー氏は、「ラジニーシの告発の目的は、ラジニーシを米国から追い払うためだった」と述べ、法的手続きは、政治的な目的に叶うように利用されてきたことを認めた[60]。目的は刑罰ではなく、コミュニティの破壊とラジニーシの追放だった[60]。1985年にアメリカから国外追放されたあと、ラジニーシは新しい拠点を求めたが、世界各国の政府から危険人物と見なされ、20数か国で入国あるいは長期滞在を拒まれ、世界を転々とした[61][6]。この「ワールド・ツアー」で長期滞在が許されたのはウルグアイだけだが、それも厳しい制限付きでだった[61]。ウルグアイ大統領サンギネッティは、もしラジニーシをウルグアイに滞在させるなら、アメリカからの60億ドルの借款は打ち切られ、将来いかなる借款も与えられないであろう、というワシントンDCからの電話を受け取り、ラジニーシ一行はウルグアイを去らなければならなかった[62]

インド 第2期プネー編集

86年7月にはボンベイに、そして87年1月にはプーナに戻る[18]。活動のためにはプネーに戻るしかなく、1987年1月に帰国したが、インド政府の監視下に置かれた[61][6]。1987年になると、インド・プーナに運動の本拠地が復帰した[63]。次の3年間、彼はほぼ毎日の講話を行い、年間約1万人の訪問者がアシュラムを訪れた[18]。87年以降、ラジニーシの講話の題材はすべて禅語録から選ばれるようになる[18]。その影響もあるのであろうか、この時期日本人の訪問者が増加した[18]

1987年、ラジニーシはエイズを危険な病気とみなし、アシュラム来訪者の全てにエイズの陰性証明書が求められるようになった[62]

1988年7月、この14年で初めて、それぞれの夕方の講話の終わりに、自ら瞑想を指導し始める[64]。ミステックローズと呼ばれる、革命的に新しい瞑想テクニックも導入される[64]。笑い、涙、沈黙の観照の3つのステージからなる瞑想法[62]である。

1989年2月から再び病気になり、弟子たちは彼をOshoラジニーシと呼ぶようになった[65]。さらにラジニーシは尊称をOshoに変えた。それまでラジニーシの名でブランド化されていた全てをOshoに変えるよう求め、ラジニーシ・インターナショナル・ファウンデーション改めオショー・インターナショナル・ファウンデーション(OSHO International Foundation)が、Oshoやセラピー等を商標登録し直し、管理を行った[66]

1990年1月2週目に入ると、ラジニーシの身体は著しく弱まる[64]。1月18日、彼はブッダ・ホールに来れなくなるほど肉体的に弱まる[64]。1月19日彼の脈拍が不規則になる[64]。医師が心臓蘇生術を準備するべきかどうかと尋ねると、Oshoは「いや、ただ私を逝かせてほしい。存在がその時期を決める」と答える[64]。彼は午後五時に肉体を離れる[64]1990年1月19日、ラジニーシは心臓発作のため59歳で死去した[18]。身体は1時間以内にブッダホールに運ばれ、檀上に10分間置かれた後、長い行列を従えて火葬場へと運ばれた[62]

死後編集

 
オショー・インターナショナル・ファウンデーションが運営する瞑想リゾート

ラジニーシに特定の後継者はなく、すべてのサニヤシンが後継者であるとされ、プーナや世界各地の瞑想センターは弟子達が独自に運営している[63]。Oshoメディテーションリゾートは、より油断なく、リラックスして、楽しく生きる方法を、直接、個人的に体験できる場所である[67]。インドのムンバイから南東に百マイルほどのプネーにあり、毎年世界の百カ国以上から訪れる数千の人々に、バラエティーに富んだプログラムを提供している[67]。3日~3か月の瞑想法、セラピー、ダンス、禅を標榜する極東武道、手かざし等のヒーリングなど200種類以上のコースが提供され、常時2000人以上のネオ・サニヤシンが集まり、コースに参加している[68]。コミューンはラジニーシの瞑想録を読んで、瞑想のために世界中から集まる者が、「自然であること」すなわち、社会や教育によって与えられた「抑圧」からの解放を亭受するための社会から切り放された楽園として機能している[69]

ラジニーシの語った何千もの講話は、個人レベルの問題から今日の社会に直面する最も緊急の社会・政治問題まで様々なジャンルに渡っていて、もはや分類の域を超えている[70]。毎日語られていたラジニーシの即興の講話はオーディオおよびビデオに録られ、何か国もの言語に訳され、世界中の人々に届けられている[70]。ラジニーシの死去後も講話の本は売れ続け、多くのファンがいる。書店では現在も、OshoラジニーシまたはOsho名義の講話の本や、彼の講話をコンセプトにしたタロットカードのデッキ「Osho禅タロット」を買うことができる[52]。Oshoの講話や生み出された瞑想のベースに糸のように張り巡らされているのは、時と年代を超えた永遠の知恵が包含された高い可能性を秘めた、今日のまたはこの先の科学技術である[70]。ラジニーシの生み出した革新的な瞑想の数々は、加速されたペース生きる現代人に対する内なる変容の科学として広く知られている[70]

ラジニーシは言う、「次のことを覚えておくように。私はあなたについて話しているだけでなく、次の世代のために話しているのだということを[70]

呼称の変遷編集

モーハン・チャンドラ・ジャインとしてインドに生まれた。ジャインはジャイナ教の「ジャイナ」の現代インド語読みでジャイナ教徒の性、「月」を意味する「チャンドラ」は、インドの慣習から父の名であると思われる[71]。「夜の夫」、すなわち「月」を意味する「ラジニーシ」は、現代インドではあまり見られない名前である[71]

1966年に大学を退職して「思想演説家」として、「先生」という意味のタイトルを冠して「アチャリヤ・ラジニーシ」と名乗って活動を始めた[71]。70年に入ると活動は宗教色を帯び、71年には自分の尊称を「アチャリヤ」から「バグワン・シュリ」に変えた[71]。バグワンは「栄光ある」という意味で神や釈迦の尊称、特に創造神ヴィシュヌを指し、「シュリ」は「聖なる」という意味であり、この名称はインドの人々から反感を買うことになった[71]

死の2年前の1988年にラジニーシは、ゴータマ・ブッダ(仏陀)またはブッダ・マイトレーヤ(弥勒菩薩)の霊が体に入ったと考え「ゴータマ・ザ・ブッダ」を名乗り、「マイトレーヤ・ザ・ブッダ」「シュリ・ラジニーシ・ゾルバ・ザ・ブッダ」と次々に名を変えた[72][73]

ラジニーシが晩年多く語ったテーマはであり、死の前年の1989年には弟子たちが「Oshoラジニーシ(Osho Rajneesh)」と呼ぶようになり、ラジニーシは禅宗の「和尚」から取り「Osho」と名乗るようになった[61][65]。加えてその名前は19世紀のアメリカ詩人ウィリアム・ジェームズの言葉「オーシャニック」に由来し、大海に溶け込むことを意味するとも説明した。商標等は全てラジニーシからOshoに直され、現在は著作も概ねOshoラジニーシかOsho名義で出版されている。

Oshoラジニーシ運動編集

ラジニーシは1960年代後半にインドで始まり先進資本主義国を中心に広まったOshoラジニーシ・ムーブメント(英:Rajneesh movementの創始者[74][32]と呼ばれている。弟子たちは、ラジニーシは覚醒者であり自分たちを悟りに導くマスターだとみている[9]。1985年までは、弟子は、サニヤス名を使い、サフラン色のローブや赤系統の服を常に身に付け、首からはマラとよばれるラジニーシの写真のはいった数珠をさげ、1日に1度は瞑想をすることが条件だった[9][38]。ネオ・サニヤシンたちは、サンスクリット語の名前サニヤス・ネームを受け、仲間同士その名前で呼びあっていた[38]。講話録の翻訳者名にも、サニヤス・ネームが多くみられるが、現在は自由に自分でサニヤス名を選び名乗ることが普通になっている。

多くの女性サニヤシンは、女性をスピリチュアルに評価するラジニーシの教えは、「母性のもう一つの道の提示であり、女性に解放をもたらすもの」だと感じた[35]。日本では、少なくとも1997年当時ですでに約3千人のサニヤシンがいたされ、東京をはじめ全国20数カ所の瞑想センターを拠点に活動を行い、インドでグループ・セラピーや、瞑想コミューン活動に参加していた[38]。日本のサニヤシンへのインタビューによると、彼らはOshoラジニーシ運動に参加する前、大部分が家族や友人との関係が希薄だった傾向があった[38]。多くの人が講話録を通じてラジニーシに出会い、強烈な衝撃を受け、その後人生の転機に直面した際に教えを行動に生かすことで、ラジニーシやネオ・サニヤシンたちへの信頼を深めている[38]。スピリチュアルな世界への能動的なコミットメント、積極的な行動力でインドまで赴き、集中的な瞑想やグループ・セラピーで、社会的なしがらみからの開放感、変性意識状態を経験することで、ラジニーシへの傾倒を深める、というイニシエーションへの過程がうかがえる[38]。ラジニーシの開発した瞑想の集中的な実践や、泊りがけの数日間のグループ・セラピーを2~3か月間体験した後に、ネオ・サニヤシンのイニシエーションを申請することが多かった[38]。タントラ的スピリチュアリティニューエイジ自己啓発運動で広がっているが、現代のタントラの指導者の多くはラジニーシの弟子筋である[35]

ドキュメンタリー編集

ラジニーシ教団の驚異的な成功と破滅を追ったNetflixのドキュメンタリー・シリーズ「ワイルド・ワイルド・カントリー(Wild Wild Country)」(全6話)が、2018年に第70回エミー賞5部門にノミネートされ、米国内で注目を集めた[75]。ラジニーシの思想や教えには踏み込まず、関係者を追う形をとっている[75]。映画とテレビを評価統計するサイト「Rotten Tomatoes」では、公開半年時点でのスコアは98%と高い[75]。RogerEbert.comの評論家のニック・アレンは、本作を「善と悪の複雑な定義を観客に問いかける、奥深く魅惑的な作品」と絶賛した[75]

日本語書籍編集

講話録編集

バグワン・シュリ・ラジニーシ
  • 『存在の詩―バグワン・シュリ・ラジニーシ、タントラを語る』スワミ・プレム・プラブッダ訳(星川淳)訳 (めるくまーる、1977年、ISBN 4-8397-0001-X)
  • 『究極の旅―バグワン・シュリ・ラジネーシ、禅の十牛図を語る』スワミ・プレム・プラブッダ訳 (めるくまーる、1978年、ISBN 4-8397-0002-8)
  • 『草はひとりでに生える』マ・アナンド・ナルタン(中沢藤胡)訳(ふみくら書房、1978年)
  • 『Tao 永遠の大河―バグワン・シュリ・ラジニーシ、老子を語る(1,2,3,4)』 スワミ・プレム・プラブッダ訳、めるくまーる、1979-1982年)
  • 『生命の歓喜―バグワン・シュリ・ラジニーシとの対話 ダルシャン日誌』(ラジニーシ・パブリケーション・ジャパン、1980年)
  • 『あなたが死ぬまでは』マ・アナンド・ナルタン訳 (ふみくら書房、1980年)
    • 『あなたが死ぬまでは』(Oshoエンタープライズジャパン、1997年、ISBN 4-900612-23-5)
  • 般若心経―バグワン・シュリ・ラジ二ーシ、色即是空を語る』スワミ・プレム・プラブッダ訳 (めるくまーる、1980年)
  • 『マイウェイ―流れ行く白雲の道』マ・アナンド・ナルタン訳 (ラジニーシ・パブリケーション・ジャパン、1980年)
  • 『瞑想―祝祭の芸術』 スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (めるくまーる、1981年、ISBN 4-8397-0009-5)
  • 『愛の錬金術―隠されてきたキリスト(上・下)』マ・アナンド・ナルタン訳(めるくまーる、1981年)
  • 『セックスから超意識へ』スワミ・アナンド・ニラーラ訳 (ラジニーシ・パブリケーションズ・ジャパン 1982年)
  • 『虚空の舟―荘子 (上・下)』マ・アナンド・ナルタン訳 (ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン 1982年)
  • バウルの愛の歌 (上・下)』スワミ・サンギート訳(めるくまーる 1983年・1984年)
  • 『オレンジ・ブック―バグワン・シュリ・ラジニーシの瞑想テクニック』スワミ・トシ・ヒロ訳 (ホーリスティック・セラピー研究所、1984年)
  • 『ダイヤモンド・スートラ-バグワン・シュリ・ラジニーシ金剛般若経を語る』スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳(瞑想社、1986年)
  • 『新人権宣言―バグワン・シュリ・ラジニーシ基本的人権を語る』スワミ・ヤスヒデ、スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1986年)
  • 『英知の辞典』スワミ・アナンド・ソパン(めるくまーる、1996年)
  • 『魂への犯罪―バグワン・シュリ・ラジニーシ聖職者と政治家を語る』(イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン、1987年)
  • 一休道歌 上』スワミ・アナンド・モンジュ訳 (めるくまーる、1987年、ISBN 4-8397-0036-2)
  • 『一休道歌 下』スワミ・アナンド・モンジュ訳 (めるくまーる、1988年、ISBN 4-8397-0037-0)
  • マイトレーヤ―バグワン・シュリ・ラジニーシ、ザ・ブッダ・ロード・マイトレーヤ』 スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1988年)
  • 『大いなる挑戦―黄金の未来』創造的科学と芸術と意識の世界アカデミー日本準備委員会 監修(ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1988年)
  • 『ニュー・ウーマン誕生 : A new vision of women's liberation』(ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1988年)
  • 『信心銘』スワミ・パリトーショ訳 (禅文化研究所、1989年、ISBN 4-88182-073-7
  • 『ゴールデン・チャイルドフッド―光輝の年代 : シュリ・ラジニーシ幼年期を語る』スワミ・パリトーショ訳 (ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1989年)
  • 『新人類―未来への唯一の希望』 スワミ・パリトーショ、スワミ・キャル訳 (瞑想社、1989年)
  • 『アイ・アム・ザ・ゲート 秘儀伝授と弟子の意味』 武捨宏昭訳 (パブフル、2020年)
OSHOラジニーシ
  • 『ア・カップ・オブ・ティー―オショー・ラジニーシ初期書簡集』スワミ・プレム・プラブッダスワミ・アナンド・ソパン訳 (めるくまーる、1989年)
  • 『死・終わりなき生―オショー・ラジニーシ講話録』(講談社、1989年、ISBN 4-06-203569-3)
  • 『モジュッド : 説明できない生を生きた人―和尚スーフィーを語る』マ・アンタール・コマルタ編、スワミ・アナンド・ニラーラ訳(Oshoエンタープライズジャパン、1990年)
  • ニーチェ―和尚ラジニーシ、ニーチェを語る』スワミ・アナンド・ニサルガム、小森健太朗訳 (全国エルピー・プル狂連、1990年)
  • 坐禅和讃―和尚ラジニーシ、白隠禅師を語る』スワミ・プレム・ラジャ、スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1990年)
  • 『反逆のスピリット』スワミ・デヴァ・マジュヌ、マ・デヴァ・ヨーコ他訳 (めるくまーる、1990年、ISBN 4-8397-0057-5)
  • 臨済録』スワミ・アナンド・モンジュ訳 (めるくまーる、1991年、ISBN 4-8397-0061-3)
  • 『狂人ノート』マ・アナンド・ナルタン訳、マ・アナンド・プシュポ編 (Oshoエンタープライズジャパン、1991年、ISBN 4-900612-08-1)
  • 『私が愛した本〛スワミ・パリトーショ訳 (Oshoエンタープライズジャパン、1992年)
  • 『空っぽの鏡・馬祖』(壮神社、1992年、ISBN 4-915906-01-9)
  • 道元―その探求と悟りの足跡』スワミ・アンタール・ガータサンサ訳 (Oshoエンタープライズジャパン、1992年)
  • 『未知への扉―和尚、秘教グループを語る』 スワミ・アナンド・モンジュ訳 (瞑想社、1992年)
  • 『タントラ―セックス、愛、そして瞑想への道』 スワミ・アナンド・チダカッシュ訳 (Oshoコーシャ瞑想センター、1992年)
  • 『新瞑想法入門―和尚ラジニーシの瞑想法集大成』スワミ・デヴァ・マジュヌ訳 (瞑想社、1993年、ISBN 4-8397-0070-2
  • 『これこれ千回もこれ―のまさに真髄』スワミ・アナンド・ソパン訳 (Oshoエンタープライズジャパン、1993年)
  • 『内なる宇宙の発見―呼吸・夢の超越・やすらぎ <タントラ秘宝の書1>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ(田中ぱるば)訳 (市民出版社、1993年)
  • 秘教の心理学』スワミ・プレム・ヴィシュダ訳 (瞑想社、1994年)
  • 『生・愛・笑い』(めるくまーる、1994年、ISBN 4-8397-0049-4)
  • 『ノーマインド―永遠の花々』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳、スワミ・アナンド・ソパン照校 (壮神社、1994年、ISBN 4-915906-11-6)
  • 『源泉への道―中心へ向かう・ハートの開発 <タントラ秘宝の書2>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1994年)
  • 第三の眼―見る技法・ブッダの愛 <タントラ秘宝の書3>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1994年)
  • ダンマパダ』 沢西康史訳(瞑想社、1994年)
  • ボーディダルマ』(めるくまーる、1994年、ISBN 4-8397-0079-6)
  • 『沈黙の音―音を対象とした瞑想技法 <タントラ秘宝の書4>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1995年)
  • 『愛の円環―宇宙的オーガズム <タントラ秘宝の書5>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1995年)
  • 『TAO―老子の道〈上〉』(めるくまーる、1995年、ISBN 4-8397-0081-8)
  • 『TAO―老子の道〈下〉』(めるくまーる、1995年、ISBN 4-8397-0082-6)
  • 『覚醒の深みへ―エネルギーの上昇 <タントラ秘宝の書6>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1995年)
  • 『光と闇の瞑想―存在への回帰 <タントラ秘宝の書7>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1996年)
  • 『覚醒の炎 <奇跡の探求 : 和尚初期瞑想キャンプの講話1>』 Oshoサクシン瞑想センター訳(市民出版社 1996年)
  • 『存在とひとつに―ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書8>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1997年)
  • 『生の神秘-ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書9>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1997年)
  • 『空の哲学-ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書10>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1998年)
  • イーシャ・ウパニシャッド―存在の鼓動』スワミ・ボーディ・マニッシュ訳 (市民出版社、1998年、ISBN 4-88178-165-0)
  • 『七身体の神秘 <奇跡の探求 : Osho初期瞑想キャンプの講話2>』 Oshoサクシン瞑想センター訳 (市民出版社、1998年)
    • 『七つのチャクラの神秘 <奇跡の探求 : Osho初期瞑想キャンプの講話2>』Oshoサクシン瞑想センター訳 (市民出版社、2016年)
  • 『私の愛するインド―輝ける黄金の断章』 スワミ・プレム・グンジャ訳、マ・ジヴァン・アナンディ照校 (市民出版社、1999年)
  • 『知恵の種子』(市民出版社、1999年、ISBN 4-88178-171-5)
  • 『無水無月』(市民出版社、1999年、ISBN 4-88178-167-7)
  • 黄金の華の秘密』(めるくまーる、1999年、ISBN 4-8397-0099-0)
  • 『夜眠る前に贈る言葉』 (市民出版社、1999年)
  • 『タントラの変容―サラハの王の歌』(市民出版社、2000年、ISBN 4-88178-177-4)
  • 『隠された神秘』(市民出版社、2000年、ISBN 4-88178-174-X)
  • 『朝の目覚めに贈る言葉』 (市民出版社、2000年)
  • 『エンライトメント―神秘家・アシュタヴァクラ : ただひとつの変革』スワミ・アンタール・ソハン訳 (市民出版社、2003年)
  • 『インナー・ジャーニー―内なる旅』マ・アナンド・ムグダ訳 (市民出版社、2005年)
  • 『そして花々が降りそそぐ―和尚講話録』 マ・プレム・プラバヒ、Oshoサクシン瞑想センター訳(市民出版社、2005年)
  • 『古代の奥義書ウパニシャッドを語る <究極の錬金術 1・2>』 スワミ・ボーディ・イシュワラ訳 (市民出版社、2006年)
  • 『魂の科学-パタンジャリヨーガ・スートラ澤西康史訳 (LAF瞑想社、2007年)
  • 『こころでからだの声を聴く―ボディ・マインド・バランシング』 マ・アナンド・ムグダ訳 (市民出版社、2007年)
  • 『神秘家の道-珠玉の質疑応答録』 スワミ・パリトーショ訳、スワミ・アドヴァイト・パルヴァ, マ・ギャン・シディカ照校 (市民出版社、2009年)
  • 『愛の道-神秘家・カビールを語る』 スワミ・プレム・グンジャ訳、マ・アナンド・ムグダ, マ・ギャン・プーナム照校(市民出版社、2013年)
  • 『Joy 喜び』 山川紘矢訳 (角川書店、2013年)
  • 『死ぬこと生きること』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ(宮川義弘)訳、マ・アナンド・ムグダ、マ・ギャン・シディカ照校(市民出版社、2014年)
  • 『Courage 勇気』 山川紘矢山川亜希子訳 (KADOKAWA、2014年)
  • 『死について41の答え』OSHO (めるくまーる、2015年)
  • 『真理の泉』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳(市民出版社、2016年)
  • 『Intution 直観』 山川紘矢山川亜希子訳 (KADOKAWA、2016年)
  • 『ブッダ―最大の奇跡 <超越の道シリーズ1>』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳、マ・ギャン・プーナム照校(市民出版社、2019年)
  • 『瞑想録―静寂の言葉』 中原邦彦・庄司純訳 (季節社、2019年)
  • 『あなたの魂を照らす60の物語』 Amy Okudaira訳 (大和書房、2019年)
  • 『心理学を超えて1』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳 (市民出版社、2019年)
  • 『存在の詩 TANTRA THE SUPREME UNDERSTANDING』新装復刊 OSHO 星川淳訳 2020年 めるくまーる

解説編集

雑誌編集

  • 『Rajneesh times international(ラジニーシ・タイムズ・インターナショナル)』イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン株式会社 編、イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン、Vol.1(20 Dec. 1987)~15号(1 Oct. 1989)
  • 『Osho times international(和尚タイムズ・インターナショナル)』 和尚ジャパン 編、イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン (16号-17号) → Oshoイア・ネオ・サニヤス・コミューン (18/19号-88号) → オージェーインスティテュート (89号-95号)、刊行終了
  • 月刊「ムー」1983年9月号 No.34、10月号 No.35、学習研究社「OSHO、秘教グループを語る」スワミ・アナンド・モンジュ訳

脚注編集

出典編集

  1. ^ a b c d 現代宗教辞典. 弘文堂. p. 529 
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  3. ^ 空っぽの鏡・馬祖. 壮神社. (1992年) 
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  9. ^ a b c Puttick 2009, p. 269.
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  11. ^ a b c Puttick 2009, p. 270.
  12. ^ 足沢 2000, pp. 85-86.
  13. ^ a b c d e 現代社会とスピリチャリティ. 渓水社. p. 65 
  14. ^ a b c 足沢 2000, pp. 85-87.
  15. ^ a b 足沢 2000, p. 92.
  16. ^ a b c 足沢 2000, pp. 87-88.
  17. ^ a b c d 足沢 2000, p. 91.
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  32. ^ a b c 石村 1995, p. 343.
  33. ^ a b 足沢 2000, p. 89.
  34. ^ Bhagwan Shree Rajneesh (1988), The Invitation (1 ed.), Rebel Publishing 
  35. ^ a b c Puttick 2009, pp. 270-271.
  36. ^ 和尚 (1996). 英知の辞典. めるくまーる ---p470-p474「母親になる MOTHERHOOD」
  37. ^ 足沢 2000, p. 72.
  38. ^ a b c d e f g h 伊藤 1997.
  39. ^ 吉福 1987.
  40. ^ 引用例としては、例えばピーター・ラッセル 『グローバル・ブレイン』工作舎,1994年
  41. ^ 吉福伸逸、1987、『トランスパーソナルとは何か』、春秋社---p58
  42. ^ a b c d e 足沢 2000, pp. 77-78.
  43. ^ a b 足沢 2000, pp. 81-82.
  44. ^ a b 石村 1995, pp. 348-349.
  45. ^ マ・プレム・シュンニョ (1994年9月21日). 和尚と過ごしたダイアモンドの日々. 和尚エンタープライスジャパン株式会社 ---p165-p166
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  47. ^ a b 石村 1995, p. 347.
  48. ^ a b 足沢 2000, pp. 79-80.
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  50. ^ a b 石村 1995, p. 352.
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参考文献編集

書籍・論文
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  • Andrew R. Fuller (2007). Psychology and Religion: Classical Theorists and Contemporary Developments, Fourth Edition(心理学と宗教:古典理論家と現代の発展、第4版). Rowman & Littlefield Publishers 
  • William R. Clark (2008). Bracing for Armageddon?: The Science and Politics of Bioterrorism in America(ハルマゲドンへの備え?:アメリカのバイオテロの科学と政治). Oxford Univ Pr on Demand 
  • Andrew R. Fuller (2007). Psychology and Religion: Classical Theorists and Contemporary Developments, Fourth Edition(心理学と宗教:古典理論家と現代の発展、第4版). Rowman & Littlefield Publishers 
  • 2005、『ヒンドゥー教の事典』、東京堂出版
    • 山下博司 執筆「第5章 ヒンドゥー教と近・現代世界」。
  • Everything You Know About God Is Wrong: The Disinformation Guide to Religion(あなたが神について知っていることは全て間違い:宗教の偽情報ガイド). Russ Kick(編集)、Neil Gaiman・Richard Dawkins(協力). Disinformation Co. (2007) 
  • 豊島泰国 執筆『ヒンドゥー教の本』増田秀光・山本尚幸 編集デスク、学習研究社、1995年。
  • 足沢一成島岩坂田貞二(編)、2000、「ラジニーシ教団 教団の形成・外部社会との対立・対立の回避」、『聖者たちのインド』、春秋社
  • 伊藤雅之2.和尚ラジニーシ・ムーブメントの3様相 : 世界観、組織、担い手のダイナミクス(II「精神世界」の「社会性」を透視する,ワークショップ(1)精神世界の構図2-精神世界の「社会性」を透視する-)」『宗教と社会』第4巻、「宗教と社会」学会、1999年、 13-18頁、 doi:10.20594/religionandsociety.4.Suppl_13ISSN 1342-4726NAID 110007653802
  • 伊藤雅之 他「IV 全体討議の概要(ワークショップ(1)「精神世界」の構図-現代社会と現代人の意識を理解する手がかりとして-)」『宗教と社会』第3巻、「宗教と社会」学会、1998年、 35-42頁、 doi:10.20594/religionandsociety.3.Suppl_35NAID 110007653784
  • 伊藤雅之イニシエーションまでの過程 和尚ラジニーシ・ムーブメントの場合 (PDF) 」 『ソシオロゴス』第21巻、ソシオロゴス編集委員会、1997年、 59-78頁、 NAID 40004382348
  • 奥村文男「憲法20条1項の「政治上の権力」の意味について」『憲法論叢』第3巻、関西法政治学研究会、1996年、 53-69頁、 doi:10.20691/houseiken.3.0_53NAID 110002283612
  • 石村耕治、1995、「宗教集団による自治体支配の法的問題 -ラジニーシプラム市事件を素材として-」、『アメリカ連邦税財政法の構造』、法律文化社
  • A. R. Desai (1993). Modern Godmen in India: A Sociological Appraisal (Role of Religion in Indian Society Series) (インドの現代のゴッドマン:社会学的評価(インド社会における宗教の役割シリーズ)). South Asia Books 
  • 吉福伸逸、1987、『トランスパーソナルとは何か』、春秋社
  • 沼田健哉「深層心理学と宗教」『桃山学院大学社会学論集』第15巻第2号、桃山学院大学総合研究所、1982年、 221-239頁、 NAID 110004701350
  • Mullan, Bob (1983), Life as Laughter: Following Bhagwan Shree Rajneesh, London, Boston, Melbourne and Henley: Routledge & Kegan Paul Books Ltd, ISBN 0-7102-0043-9 .
  • 伊藤雅之「現代社会とスピリチュアリティ」、渓水社、2003年
ウェブ

関連文献編集

書籍
  • Osho (2010). Zen: Take it Easy(禅:気軽に). Diamond Pocket Books 
  • Jane Stork (2009). Breaking The Spell : My Life As A Rajneeshee, And The Long Journey Back To Freedom(呪縛からの解放:ラージニーシ教団員としての私の人生、そして自由への長い旅) 
  • Oliver Klatt (2007). Reiki Systems of the World: One Heart - many Beats(世界のレイキシステム:たくさんの鼓動を打つひとつのハート). Lotus Pr 
  • マックス・ブレッカー『Osho アメリカへの道-砂漠の実験都市ラジニーシプーラムの誕生と崩壊の真相』「OSHOアメリカへの道」プロジェクト訳、めるくまーる、2005年
  • マ・プレム・シュンニョ『Oshoと過ごしたダイアモンドの日々』 マ・プレム・ソナ訳、Oshoエンタープライズ・ジャパン、1994年
  • ヒュー・ミルン『ラジニーシ ― 堕ちた神』 鴫沢立也訳、第三書館 、1991年(再版)☆ラジニーシの側近でのち離反した人物の回想録。ブレッカー『Osho アメリカへの道』によると本書は名誉毀損で訴えられている[誰?]
  • ヴァサント・ジョシ『反逆のブッダ バグワン・シュリ・ラジニーシの軌跡』スワミ・プレム・プラブッダ訳、めるくまーる、1984年
  • ヴァサント・ジョシ『異端の神秘家OSHO・反逆の軌跡』宮川義弘 市民出版社 2018年
  • 和尚『ア・カップ・オブ・ティー Oshoラジニーシ初期書簡集』スワミ・プレム・プラブッダ, スワミ・アナンド・ソパン 訳、めるくまーる、1995年。
  • 日家ふじ子『自分という名の迷宮 インナーラビリンス』めるくまーる、2016年
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外部リンク編集