バーリントン (哨戒フリゲート)

艦歴
発注
起工 1943年10月19日
進水 1943年12月7日
就役 1944年4月3日
退役 1952年9月15日
その後 1953年6月26日にコロンビアに売却
除籍 1953年5月28日
性能諸元
排水量 基準 1,430トン
満載 2,415トン
全長 303 ft 11 in (92.6 m)
全幅 37 ft 6 in (11.4 m)
吃水 13 ft 8 in (4.1 m)
機関 ボイラー3基 5,500軸馬力
タービン2基 2軸推進
最大速力 20ノット (37 km/h)
航続距離
乗員 190名
兵装 3インチ50口径対空砲3門
40mm機関砲 4門
20mm機関砲 9門
ヘッジホッグ 1基
対潜爆雷投射機(Y砲)8基
爆雷投下軌条 2条

バーリントン (USS Burlington, PF-51) は、アメリカ海軍の哨戒フリゲートタコマ級フリゲートの1隻。艦名はアイオワ州バーリントンに因む。

艦歴

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バーリントンは海事委任契約(船体番号1462)の下1943年10月19日にカリフォルニア州ウィルミントンコンソリデーテッド・スチール社で起工した。1943年12月7日にフィレンツェ・E・コンラッド夫人によって命名、進水し、1944年4月3日に艦長E・B・カールソン沿岸警備隊少佐の指揮下就役した。

整調および整調後の信頼性試験を終えると、バーリントンは8月1日にカリフォルニア州サンペドロを出航した。最初の配属でエスピリトゥサント島に向かったバーリントンは、西ニューギニアにおいて哨戒および護衛任務に従事した。その後10月16日から11月18日まで、レイテ島攻略に備えてニューギニアとフィリピン諸島間を航行する船団の護衛を担当する。12月3日に戦闘地帯を離れたバーリントンはカリフォルニアに帰還、12月25日にサンフランシスコに到着し信頼性試験を始めた。

修理および寒冷地における活動のための装備が完了すると、バーリントンは1945年2月18日にサンフランシスコを出航し、アリューシャン列島での5ヶ月に及ぶ哨戒および護衛任務に入る。同年の初夏にワシントン州タコマへ向かう様命じられ、信頼性試験およびソ連海軍への貸与の準備が行われた。修理は7月18日から8月2日まで行われ、作業が完了すると8月8日にアラスカ州コールド・ベイに向かった。同地でソ連海軍の兵士を訓練し、バーリントンは1945年8月26日に退役、翌日にレンドリース法に基づきソ連海軍に貸与された。ソ連海軍は4年近くの間運用し、1949年11月14日にバーリントンを返却した。

返却されたバーリントンは日本で予備役として保管されたが、1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、横須賀オーバーホールが行われ、1951年1月5日に再就役した。横須賀沖での整調および訓練の後、バーリントンは朝鮮半島海域に向かった。3月14日から4月24日まで元山港および城津で作戦活動を行い、沿岸目標への艦砲射撃、湾入り口での管制艦任務、哨戒および護衛任務に従事した。佐世保での短期間の信頼性試験の後、バーリントンは戦闘地帯へ戻り、5月11日から6月8日まで元山、清津で艦砲射撃や哨戒を行った。1951年の夏の間、バーリントンは第92および第77任務部隊に所属し、韓国東沿岸の補給地帯において護衛任務に当たった。9月後半に横須賀でオーバーホールを行い、12月5日に韓国水域での護衛任務に復帰した。

1952年7月初めまでバーリントンは戦闘任務を継続し、定期的に佐世保において修理、訓練を行った。7月3日に佐世保を出航しフィリピンに向かったバーリントンは、ルソン島西海岸沖での演習に参加し、その後ミンダナオ島ダバオまで巡航した。バーリントンは9月3日にマニラ湾を出航し横須賀に向かう。1952年9月15日に横須賀で退役し、1953年5月28日に除籍、6月26日にコロンビア政府に売却された。コロンビア海軍ではアルミランテ・ブリオン (Almirante Brion, F-14) の艦名で就役した。

バーリントンは第二次世界大戦の戦功で2個の、朝鮮戦争の戦功で5個の従軍星章を受章した。

外部リンク

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