ヒッタイト
- ヒッタイト帝国
- URUHa-at-ti
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紀元前16世紀 - 紀元前1180年 →
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赤:ヒッタイト帝国の最大勢力圏 緑:古代エジプトの勢力圏-
公用語 ヒッタイト語、ルウィ語、パラー語、フルリ語、アッカド語、その他アナトリア語派 首都 クッシャラ
ハットゥシャ

ヒッタイト(英:Hittites)は、インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト語を話し、紀元前15世紀頃アナトリア半島に王国を築いた民族、またはこの民族が建国したヒッタイト帝国(王国とも)を指す。なお、民族としてのヒッタイトは、ヒッタイト人と表記されることもある[1]。
名称編集
ハッティ (英: Hatti) の英語名で、旧約聖書の ヘテ人(英: Hitti、ヘト人とも)をもとにして、イギリス人のアッシリア学者A.H.セイスが命名した。
なお、この聖書の「ヘト人」はカナン人の一派として何度か名前が出てくるが、『エズラ記』9章1節のユダ王国の指導者たちがバビロン捕囚から戻っていた時、氏族長たちの報告で周辺の異民族の名前として出てくるのを最後に名前が上がらなくなり、少なくとも西暦1世紀後半の頃にはユダヤ人たちから「名前以外不明の滅んだ民族」という認識をされていた(『ユダヤ古代誌』第I巻vi章2節[2]など)。
歴史編集
ヒッタイト人 (Hittites) は、クルガン仮説による黒海を渡って来た北方系民族説と、近年提唱されているアナトリア仮説によるこのアナトリア地域を故郷として広がって行ったという2つの説が提唱されているが、決着していない。
近年、カマン・カレホユック遺跡(トルコ共和国クルシェヒル県クルシェヒル)にて鉄滓が発見され、ヒッタイト以前の紀元前18世紀頃(アッシリア商人の植民都市がアナトリア半島一帯に展開した時代)に鉄があったことが明らかにされた。その他にも、他国に青銅を輸出或いは輸入していたと見られる大量の積荷が、海底から発見された。
ヒッタイト古王国編集
紀元前1680年頃、クズルウルマック("赤い河"の意)周辺にヒッタイト古王国を建国し、後にメソポタミアなどを征服した。なお、ヒッタイト王の称号は、ラバルナであるが、これは古王国の初代王であるラバルナ1世、また、ラバルナの名を継承したハットゥシリ1世の個人名に由来し、後にヒッタイトの君主号として定着したものである。ヒッタイト王妃の称号はタワナアンナであるが、これも初代の王妃であるタワナアンナの名を継承したといわれている。 紀元前1595年頃、ムルシリ1世率いるヒッタイト古王国が、サムス・ディタナ率いる古バビロニアを滅ぼし、メソポタミアにカッシート王朝が成立。
ヒッタイト中王国編集
紀元前1500年頃、ヒッタイト中王国の成立。タフルワイリやアルワムナによる王位簒奪が相次ぐ。70年間ほど記録が少ない時代が続いた。
ヒッタイト新王国編集
紀元前1430年頃、ヒッタイト新王国の成立。
紀元前1330年頃、シュッピルリウマ1世はミタンニを制圧する。この時、前線に出たのは、王の息子達(テレピヌとピヤシリ)であった。 紀元前1285年頃、古代エジプトとシリアのカデシュで衝突。ラムセス2世のエジプトを撃退する。ラムセス2世は、勝利の記録を戦いの様子と共にルクソールなどの神殿に刻んでいるが、実際にはシリアはヒッタイトが支配を続けた(カデシュの戦い)。エジプトのラムセス王の寺院の壁に、3人乗りの戦車でラムセス2世と戦うヒッタイト軍(ムワタリの軍)のレリーフが描かれている。この際に、世界最古の講和条約が結ばれた。ハットゥシリ3世の王妃プドゥヘパ(英 Puduhepa)作とされる宗教詩は、現在発見されている最古の女性の文芸作である。ヒッタイトの宗教は、強くフルリ人の宗教の影響を受けていることが分かっている。フリ文化の色彩強まる。
紀元前1190年頃、通説では、民族分類が不明の地中海諸地域の諸種族混成集団と見られる「海の民」によって滅ぼされたとされているが、最近の研究で王国の末期に起こった3代におよぶ内紛が深刻な食糧難などを招き、国を維持するだけの力自体が既に失われていたことが明らかになった(前1200年のカタストロフ)。
滅亡後編集
ヒッタイト新王国が滅びたあと、南東アナトリアに移動し紀元前8世紀頃まで、シロ・ヒッタイト国家群(シリア・ヒッタイト)と呼ばれる都市国家群として活動した(紀元前1180年-紀元前700年頃)。ただし、この都市国家群の住民はかなりの程度フルリ人と同化していたと考えられている。
歴代君主編集
古王国以前の支配者編集
古王国編集
- ラバルナ1世(紀元前1600年頃?)
- ハットゥシリ1世(前1586年頃 - 前1556年頃)
- ムルシリ1世(前1556年頃 – 前1526年頃)
- ハンティリ1世(前1526年頃 – 前1496年頃)
- ツィダンタ1世(前1496年頃 - 前1486年頃)
- アンムナ(前1486年頃 - 前1466年頃)
- フッツィヤ1世(前1466年頃 - 前1461年頃)
- テリピヌ(前1460年頃)
中王国編集
新王国編集
- トゥドハリヤ1世(前1390年頃?)
- (以下の4代の王は、血縁関係や在位年代が不明)
- シュッピルリウマ1世(紀元前1344年 - 紀元前1322年)
- アルヌワンダ2世(紀元前1322年 - 紀元前1321年)
- ムルシリ2世(紀元前1321年 - 紀元前1295年)
- ムワタリ2世(紀元前1295年 - 紀元前1272年)
- ムルシリ3世(紀元前1272年 - 紀元前1267年)
- ハットゥシリ3世(紀元前1267年 - 紀元前1237年)
- トゥドハリヤ4世(紀元前1237年 - 紀元前1209年)
- クルンタ(?)
- アルヌワンダ3世(紀元前1209年 - 紀元前1207年)
- シュッピルリウマ2世(紀元前1207年 - 紀元前1178年)
后妃編集
系図編集
文献[3][4]を参考に作成。双方の記述で異なる場合は、各王の記事と矛盾しないものを採用した。
ハットゥシリ1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
? | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ムルシリ1世 | ハラプシリ | ハンティリ1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
娘 | ツィダンタ1世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アンムナ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フッツィヤ1世 | イシュタパリヤ | テリピヌ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハラプシリ | アルワムナ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハンティリ2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ツィダンタ2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トゥドハリヤ1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アシュムニカル | アルヌワンダ1世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トゥドハリヤ2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トゥドハリヤ3世 | シュッピルリウマ1世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルヌワンダ2世 | ムルシリ2世 | ザンナンザ | テリピヌ ハルパ副王 | ピヤシリ カルケミシュ副王 | シャル・クシュフ カルケミシュ副王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ムワタリ2世 | ハットゥシリ3世 | プドゥヘパ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ムルシリ3世 | クルンタ タルフンタッシャ副王 | トゥドハリヤ4世 | ネプテラ (マートネフェルラー) | ラムセス2世 エジプト王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルヌワンダ3世 | シュッピルリウマ2世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
遺跡編集
関連作品編集
脚注編集
- ^ 『詳説世界史B』(山川出版社。文部科学省検定済教科書。高等学校 地理歴史科用。2002年4月4日文部科学省検定済。2004年3月5日発行。2004年3月1日印刷。教科書番号 81 山川 世B005)p 24の本文には「そのうち, はやくから鉄製の武器を使用したヒッタイト人は, 前17世紀なかばごろ小アジアに強力な国家を建設してバビロン第1王朝をほろぼし, さらにシリアにも侵入してエジプトとたたかった。」と書かれていて、「ヒッタイト人」の上にはHittitesと書かれている。
- ^ フラウィウス・ヨセフス 著、秦剛平 訳『ユダヤ古代誌1』株式会社筑摩書房、1999年、ISBN 4-480-08531-9、P64。
- ^ 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年、p.145, 146
- ^ ジョン・E.・モービー 『オックスフォード 世界歴代王朝王名総覧』 東洋書林、1993年、p.60, 61