ヘンリク・シュミーゲロー

ドイツの外交官

ヘンリク・シュミーゲロー (Henrik Schmiegelow、 1941年1月29日 - )は、ドイツ出身の官僚外交官法学者

ヘンリク・シュミーゲロー

Henrik Schmiegelow
生誕 1941年1月29日
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国 ロストック
国籍 ドイツの旗 ドイツ
出身校 バージニア大学
職業 官僚外交官
活動期間 1972年外務省に入省
肩書き 駐日ドイツ大使
任期 2001年 - 2006年
前任者 ウーヴェ・ケストナー
後任者 ハンス=ヨアヒム・デア
配偶者 ミシェル・シュミーゲロー(妻)[1]
子供 二人[2]
受賞 第八回大平正芳記念賞
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来歴 編集

1941年1月29日にロストック(現:メクレンブルク=フォアポンメルン州)にて生まれる。1961年から1967年までのあいだにマールブルクハンブルクスイスジュネーヴの各都市の大学で法学を専攻し、1968年から翌69年までフランス、パリ国立行政学院にて経済学と行政学を専門に学ぶ。1970年アメリカヴァージニア大学に入学、政治学、法律学および経済学を専攻し、1973年に同大学ロースクールにて法律学修士号(LLM)を取得した[1]

大学で法学などを学ぶ中、1962年から72年までの10年間、ハンブルク州高等裁判所にて司法修習に取り組む。1972年西ドイツ外務省に入省し、上級職研修を受ける。1980年に総務局人事課法務担当官、1987年、中米・カリブ課課長代理、1991年から1996年の間には連邦大統領府で企画室長や外務局局長などの職責を果たす[2]。この外務局局長時代に、ブレーメン大学を拠点としたモンゴルにおけるドイツ法の法整備支援の企画立案に携わった[3]

在外ドイツ大使館勤務はスリランカ[注 1]アメリカ合衆国[注 2]日本など三カ国にわたる。日本においては、経済担当一等書記官として1974年から1977年までの3年を在東京西ドイツ大使館に駐留し、2001年12月22日ウーヴェ・ケストナーに代わり駐日本ドイツ連邦共和国特命全権大使に任命され、同年7月26日皇居にて信任状を捧呈した[1]。日本駐留中は、外交官として紛争地におけるドイツ連邦軍の活動の説明[4]や、法学者として途上国などへの法整備支援の推進をおこなってきた。2006年7月、ハンス=ヨアヒム・デアに大使の役職を引き継ぎ、離任。

人物 編集

  • 既婚者。妻、ミシェル・シュミーゲローとのあいだに、男の子二人をもうけた。
  • 日本研究家の妻と共に「日本の教訓―戦略的プラグマティズムの成功」を著し、1992年に第八回大平正芳記念賞を受賞した[1]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 1977年から1980年まで。在コロンボ西ドイツ大使館広報文化担当一等書記官として駐在。
  2. ^ 1984年から1987年まで。在ワシントンD.C.西ドイツ大使館政務担当参事官として駐在。

出典 編集

  1. ^ a b c d 現代外国人名録2012「ヘンリク・シュミーゲロー」の項目”. 日外アソシエーツ (2012年1月). 2016年3月28日閲覧。
  2. ^ a b 執筆者・翻訳者紹介」『丸善出版』、2005年5月。
  3. ^ 名古屋大学~戦略的思考の拠点~”. 法政国際教育協力研究センター (2007年). 2016年3月28日閲覧。
  4. ^ 駐日ドイツ大使、防大で講演”. 防衛省 (2002年10月30日). 2016年4月7日閲覧。

参考文献 編集

  • 日外アソシエーツ編『現代外国人名録』日外アソシエーツ、2012年1月。ISBN 978-4-8169-2352-4 
  • ヘンリク・シュミーゲロー,ミシェル・シュミーゲロー 著、鳴沢宏英, 新保博 訳『日本の教訓 戦略的プラグマティズムの成功』(新)東洋経済新報社、1991年8月。ISBN 4-492-39147-9 

関連項目 編集

外部リンク 編集

外交職
先代
ウーヴェ・ケストナー
  駐日ドイツ大使
2001年12月22日 - 2006年
次代
ハンス=ヨアヒム・デア