ボーセジュール砦の戦い

ボーセジュール砦の戦い(英 Battle of Fort Beauséjour、仏 Bataille de Fort Beauséjour)は、フレンチ・インディアン戦争中の戦闘である。シグネクト地峡を戦場に行われ、ル・ルートル神父戦争en:Father Le Loutre's War)の幕を閉じた。フレンチ・インディアン戦争は、戦闘から、イギリスが攻撃に転じ、最終的には、フランス北アメリカ支配に終止符を打つことになる。この戦いはまた、大西洋沿岸地域の植民地のあり方を一新することにもなり、現在のニューブランズウィックの土台を築いた。[1]

ボーセジュール砦の戦い
フレンチ・インディアン戦争

1755年のシグネクト地峡周辺の地図
1755年6月3日 - 1755年6月16日
場所現在のカナダニューブランズウィック州サックヴィル近く
北緯45度51分55.83秒 西経64度17分26.85秒 / 北緯45.8655083度 西経64.2907917度 / 45.8655083; -64.2907917座標: 北緯45度51分55.83秒 西経64度17分26.85秒 / 北緯45.8655083度 西経64.2907917度 / 45.8655083; -64.2907917
結果 イギリスの勝利
衝突した勢力
フランス王国の旗フランス王国
ミクマク族
アカディア
グレートブリテン王国の旗グレートブリテン王国
指揮官
ルイ・デュポン・デュシャンボン・ド・ヴェルゴ ロバート・モンクトン
戦力
海兵隊162
アカディア軍300
陸軍兵270
ニューイングランド植民地民兵2,000
被害者数
戦死8
負傷6
戦死4
負傷16
ボーセジュール砦の位置(ニューブランズウィック州内)
ボーセジュール砦
ボーセジュール砦
ニューブランズウィック

1755年6月3日に戦闘が開始され、イギリス陸軍の中佐のロバート・モンクトンは、ボーセジュールの近くにあるローレンス砦から、フランスの駐屯隊が守るボーセジュール砦を包囲し、最終的に、シグネクト地峡をイギリスの下に置いた。地峡をイギリスに取られたことで、フランスにとってはかなりの痛手を受けた。海が凍る冬の間は、ここが、ケベックルイブールとボーセジュールをつなぐ唯一の道だったからだ。[2]

概要 編集

ボーセジュール砦への奇襲により、イギリスは、北アメリカでのより大きな主導権を握ることになった。この時期、陸上で、フランスの砦に対して三方面からの攻撃が行われた。オハイオ盆地のデュケーヌ砦シャンプラン湖からリシュリュー川の流域地帯、そして三つ目の攻撃が、このボーセジュール砦だった。[3]

戦闘 編集

1755年6月2日、イギリス陸軍中佐ロバート・モンクトンは、イギリス陸軍兵270人(第43歩兵連隊)と、ニューイングランド植民地民兵2,000人を載せた31隻の輸送艦、3隻の軍艦と共にカンバーランド盆地に入った。ミサカシュ川の河口にをおろし、イギリス兵は敵の妨害を何ら受けずに上陸した。近くの(東に3キロの場所)ローレンス砦の交易所を集結地として、オーラック・リッジの頂上へと進軍した。フランス軍指揮官の侯爵ルイ・デュポン・デュシャンボン・ド・ヴェルゴは、これに対して、165人の駐屯兵を補強すべく、直ちにアカディアの民兵と、フランスと連合したインディアン部族招集した。また、アカディアの建築物に火をつけて、イギリス軍のに略奪されるのを阻止した、ルイブールとセントジョン川の砦にも援軍を送った。[4]

 
1755年当時のボーセジュール砦と聖堂

6月13日には、イギリス軍はボーセジュールに十分接近しており、モンクトンは13インチの臼砲で砲撃を開始した。駐屯軍の指揮官であったヴェルゴは、2週間の間包囲戦によく耐えたが、人数で勝るイギリスに対し、少人数のフランス軍は、現実的になすすべを持たなかった。フランス人聖職者ジャン=ルイ・ル・ルートルも、この戦闘中、イギリスに対戦すべく、軍に加入していた。[5]

6月16日、イギリスの臼砲が砦の壁を破壊し、駐屯軍がかなりの損失を受けた。この戦闘では、記録されている戦死者はイギリスが4人、フランスとその同盟軍が8人で、負傷者はイギリスが16人、フランスと同盟軍は6人だった。[6] ヴェルゴは降伏し、その翌日、イギリス軍は、ボーセジュール砦に続いてガスペロー砦をも手に入れた。[7] この後ル・ルートルは捕えられ、8年間の獄中生活を送った[8]。アカディア軍の指導者ジョゼフ・ブルッサールはなおも戦いを続けた[9]

イギリス支配とアカディア人追放 編集

 
戦いの前、1754年当時のアカディア

イギリスの勝利と、フランスの駐屯兵の降伏とで、アカディアから大勢のフランス兵が移動し、奥地をイギリスに明け渡した。それは、ここに住むアカディア人に、悲劇に追い込むことになった。フランス語をしゃべるアカディア人の一部は、砦をめぐるフランスとイギリスの抗争には、中立を誓っていたが、アカディア人がこの誓いを破って参戦したことは、ハリファクスのイギリス人士官には受け入れがたいものであり、ノバスコシア総督チャールズ・ローレンスは、ボーセジュールでの、このアカディア人の規則違反を理由に、アカディア人の追放を命じた。モンクトンと遠征軍とにより、この命令は実行に移され、多くのアカディア人が、土地財産を没収された[10] 追放により、現在のカナダ大西洋岸から、アメリカ合衆国までの地域のアカディア人の入植地が、同じ方針を取った。アカディア人は13植民地やヌーベルフランスに離散し[10]、アカディアン(アカディア人)という単語は、後に、ルイジアナで訛り、ケイジャンという単語となった。[11]

ボーセジュール砦は、カンバーランド砦と名を改められた。後のアメリカ独立戦争中に、植民地軍の攻撃を受けたが、撃退した。この砦は1835年までイギリスの管轄下に置かれていた。[12]

脚注 編集

  1. ^ Hand, p. 102
  2. ^ Hand, p. 13
  3. ^ Hand, p. 36
  4. ^ Stephen Patterson. Colonial Wars and Aboriginal Peoples. p. 142
  5. ^ Hand, p. 68
  6. ^ この数字は、参考文献の著者ハンドの記録の数字を、表にしたものによる。pages 62, 79, 87
  7. ^ Battle of Fort Beausejour - Québec
  8. ^ 1755: History-Father Jean-Louis Le Loutre (1709-1772)
  9. ^ 1755: History-Joseph Broussard dit Beausoleil (c. 1702-1765) Archived 2009年5月20日, at the Wayback Machine.
  10. ^ a b 木村和男 『世界各国史 23 カナダ史』 山川出版社、1999年、106頁。
  11. ^ http://www.merriam-webster.com/dictionary/cajun
  12. ^ Fort Beauséjour

参考文献 編集

  • Hand, Chris M. (2004), The Siege of Fort Beausejour 1755, Fredericton: Goose Lane Editions/New Brunswick Military Heritage Project, ISBN 0864923775