サミュエル・デ・マレ
フランスの神学者 (1599-1673)
(マレシウスから転送)
サミュエル・デ・マレ(仏:Samuel Des Marets ないしは Desmarets、ラテン語:Samuel Maresius、1599年 - 1673年) は、フランスに生まれ、主としてオランダで活動したプロテスタント神学者である[1][2][3]。日本語表記では「サミュエル・デ・マレ[4]」あるいは「サムエル・マレシウス[5]」と呼ばれる。
生涯
編集サミュエル・デ・マレは、北フランスのピカルディに生まれた。パリで学び、その後ソミュール・アカデミーでフランシスクス・ゴマルスの指導下に入った。ドルト会議の時にはジュネーヴに滞在していた。1620年に聖職者に任じられ、ランで司牧活動にあたった。カトリック教会の宣教師たちとの論争の結果、身の危険を感じ、1624年にランを後にした。この行動は批判を招くことになる。
1625年にスダン・アカデミーの教授、1632年にマーストリヒトの牧師、1636年にスヘルトーヘンボススの牧師・教授、そして1643年にフローニンゲン大学の教授になった。その名声のために、ソミュール、マールブルク、ローザンヌ、ライデンの各地から招聘を受けることになった。フローニンゲンにて1673年3月18日になくなった。
著作
編集デ・マレは100冊以上の書物を著した。『神学体系』(フローニンゲン、1645年;第4版、1673年。デ・マレの著作リストが付録となっている)はスコラ学的な作法で書かれており、教科書として広く利用された。著述家としてのデ・マレの活動は、主に論争に費やされた。攻撃の対象は、カトリック教会、ソッツィーニ派、アルミニウス主義、ジャン・ダイエらアミロー主義者、千年王国主義などであった。
脚注
編集- ^ Emile Haag La France protestante, 1853, p. 250: "réformée, la famille Des Marets n'avait pas cessé un instant de se montrer fort attachée aux doctrines évangéliques. Lambert, homme ... avoir été jamais malade. Dès son enfance, Samuel Des Marets montra une forte inclination pour l'étude."
- ^ Bettye Thomas Chambers Bibliography of French Bibles, 1994, p. 486: "Samuel Des Marets (1599-1673), professor of theology at Groningen,"
- ^ Louis Mayeul Chaudon, Dictionnaire universel, historique, critique, et bibliographique, volume 11, 1810, p. 125: "MARÉTS (Samuel des), né à Oismond en Picardie l'an 1599, avec des dispositions heureuses, étudia à Paris, à Saumur et à Genève."
- ^ W・J・ファン・アッセルト 著、青木義紀 訳『改革派正統主義の神学一ースコラ的方法論と歴史的展開』教文館、2016年、163頁。
- ^ 加藤喜之「スキャンダラスな神の概念:スピノザ哲学とネーデルラントの神学者たち」ヒロ・ヒライ、小澤実編『知のミクロコスモス:中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー』中央公論新社、2014年、234頁。
参考文献
編集- この記事には現在パブリックドメインである次の出版物からのテキストが含まれている: Jackson, Samuel Macauley, ed. (1914). New Schaff-Herzog Encyclopedia of Religious Knowledge (英語) (third ed.). London and New York: Funk and Wagnalls.
{{cite encyclopedia}}
:|title=
は必須です。 (説明)