ムハンマド・ブン・トゥグジュ

イフシード朝アミール

ムハンマド・ブン・トゥグジュアラビア語: محمد بن طغج‎, ラテン文字転写: Muḥammad b. Ṭughj882年2月8日 - 946年7月24日)は、935年アッバース朝よりエジプトの総督に任命され(在位:935年8月26日 - 946年7月24日)、969年ファーティマ朝によって征服されるまで、独立政権としてエジプトシリアの一部、およびヒジャーズを統治したイフシード朝の創始者である。また、アッバース朝のカリフから授けられたラカブ(尊称)であるアル=イフシードアラビア語: الإخشيد‎, ラテン文字転写: al-Ikhshīd)の称号によっても知られている。

アル=イフシード・ムハンマド・ブン・トゥグジュ
الإخشيد محمد بن طغج
エジプトおよびシリアのアミール[1]
在位 935年8月26日 - 946年7月24日

全名 アル=イフシード・アブー・バクル・ムハンマド・ブン・トゥグジュ・ブン・ジュッフ・ブン・イルタキーン・ブン・フーラーン・ブン・フーリー・ブン・ハーカーン[2]
出生 882年2月8日
バグダード
死去 946年7月24日
ダマスクス
埋葬 ダマスクス
子女 アブル=カースィム・アヌージュール・ブヌル=イフシード英語版
王朝 イフシード朝
父親 トゥグジュ・ブン・ジュッフ英語版
宗教 イスラーム教スンニ派
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略歴編集

ムハンマド・ブン・トゥグジュは、アッバース朝とアッバース朝の宗主権の下でエジプトシリアを支配していたトゥールーン朝の双方の統治者に仕えたトゥルク人の将軍であるトゥグジュ・ブン・ジュッフ英語版の息子として882年にバグダードで生まれた。ムハンマド・ブン・トゥグジュはシリアで育ち、父親のもとで最初の軍事と行政に関する経験を積んだ。ムハンマド・ブン・トゥグジュの初期の経歴は波乱に富んだものだった。905年にはアッバース朝によって父親とともに投獄され、906年に釈放された。そして908年にアッバース朝のワズィール(宰相)のアル=アッバース・ブン・アル=ハサン英語版の殺害に関与し、イラクから逃亡してエジプト総督のタキーン・アル=ハザリー英語版に仕えた。

その後、ムハンマド・ブン・トゥグジュは何人かの影響力のあるアッバース朝の実力者、特に軍の強力な最高司令官であるムウニス・アル=ハーディム英語版による後ろ盾を得た。これらの関係によってムハンマド・ブン・トゥグジュは最初にパレスチナ、ついでダマスクスの総督に任命された。933年にはエジプトの総督に任じられたものの、ムウニスが殺害された後にこの任命は取り消され、ダマスクスの総督の地位さえも守るために戦わなければならなかった。935年にムハンマド・ブン・トゥグジュは再度エジプトの総督に任命され、そこで速やかにファーティマ朝の侵略を退けるとともに混乱の中にあったエジプトを安定させた。ムハンマド・ブン・トゥグジュの治世は、初期のイスラーム時代の年代記において、エジプト国内の平和と安定、そして良好な統治を実現していたまれな時代であったことが示唆されている。938年にアッバース朝のカリフラーディーは、祖先のフェルガナ盆地の支配者が称していたイフシード英語版の称号を名乗るムハンマド・ブン・トゥグジュの要求を認めた。この時以降、ムハンマド・ブン・トゥグジュはイフシードのラカブ(尊称)によって知られている。

イフシードはエジプトの総督であった時代を通じてシリアを支配するために他の地域内の有力者との争いを繰り返した。東方からの侵略に対してエジプトを守る上でシリアの支配の確立は重要な問題であった。しかし、他の多くのエジプトの支配者、特に先行したトゥールーン朝とは異なり、イフシードには時期を見極めながら対抗者と妥協する用意ができていた。イフシードは当初シリア全体を支配下に置いていたが、939年から942年の間、シリアの北半分をイブン・ラーイク英語版に割譲することを余儀なくされた。イブン・ラーイクの暗殺後、イフシードはシリア北部の支配を回復したものの、これは結果的にシリアの支配を目論むハムダーン朝による挑戦を招くことになった。

その後、944年にイフシードはラッカでアッバース朝のカリフのムッタキーと面会した。カリフは自分を拉致し、バグダードのアッバース朝政権を支配しようと争っている幾人かの有力者から逃れていた。カリフに対してエジプトへ来るように説得することには失敗したものの、イフシードはエジプト、シリア、およびヒジャーズに対する30年間の世襲による統治を認められた。イフシードの出発後、944年の秋にハムダーン朝の君主のサイフ・アッ=ダウラ英語版によってアレッポとシリア北部が占領されたが、イフシードは翌年にサイフ・アッ=ダウラを破ってシリアから追放した。最終的に両者はかつてイフシードとイブン・ラーイクが合意していた境界線に沿う形でシリアを分割することで10月に合意に達した。イフシードはその9か月後に死去し、実力者である黒人宦官のアブル=ミスク・カーフール英語版による後見のもとで息子のアヌージュール英語版が後継者となった。

出身と初期の経歴編集

 
 
エジプト
 
トゥールーン朝
 
マクリア王国
 
ドンゴーラ
 
アルワ王国
 
ソバ
 
アクスム王国
 
バルカ
 
ティンニース
 
アッバース朝
 
ハ ザ ー ル
 
サージュ朝
 
バグラトゥニ朝
 
ハムダーン朝
 
サーマーン朝
 
ホラーサーン
 
サッファール朝
 
ズィヤード朝
 
ファールス
 
バフライン
 
オマーン
 
ブルガリア帝国
 
ビ  ザ  ン  ツ  帝  国
 
ヒジャーズ
 
スグール
 
シリア
905年にアッバース朝がトゥールーン朝を滅ぼしてエジプトとシリアの直接統治を回復させる直前の時期の主な政権(赤字)と主要都市の地図(境界線は現代の国境)

13世紀の法学者で伝記作者のイブン・ハッリカーン英語版が編纂した人名辞典によれば、ムハンマド・ブン・トゥグジュは882年2月8日にバグダードのクーファ門に通じる路上で生まれた[3][2]。家族はマー・ワラー・アンナフルフェルガナ盆地出身のトゥルク人であり、王族の子孫であると主張していた。ムハンマド・ブン・トゥグジュの先祖の名前である「ハーカーン」はトゥルク人の君主号の一つである[4][5]。ムハンマド・ブン・トゥグジュの祖父のジュッフはトゥールーン朝の創始者であるアフマド・ブン・トゥールーン英語版の父と同様にサーマッラーのアッバース朝の宮廷で軍務に就くためにフェルガナを離れた[6][7]。ジュッフの息子でムハンマド・ブン・トゥグジュの父であるトゥグジュ・ブン・ジュッフ英語版も父とともにアッバース朝に仕えたが、868年にはエジプトとシリアで自立したトゥールーン朝の軍人となった[6][7]。そしてティベリアジュンド・アル=ウルドゥン英語版の首都)、アレッポジュンド・キンナスリーン英語版の首都)、およびダマスクスジュンド・ディマシュク英語版の首都)の総督としてトゥールーン朝に仕えた[6][7]

トゥグジュ・ブン・ジュッフは903年のダマスクスに対するカルマト派の攻撃を撃退する上で重要な役割を果たした。郊外での戦闘では敗北を喫したものの、カルマト派の軍隊に対して7か月にわたり都市を防衛し続け、エジプトからの援軍が到着したことでカルマト派は撤退した[8][9]。このような状況の中、ムハンマド・ブン・トゥグジュはトゥールーン朝統治下のシリアにおいて若い時代の大半を父親の側で過ごし、行政(ティベリアで父親の副総督を務めた)と軍事に関する初期の経験を積んだ[7]

896年にアフマド・ブン・トゥールーンの息子のフマーラワイフ英語版が死去するとトゥールーン朝は急速に内部崩壊を始め、905年にアッバース朝がシリアとエジプトの直接支配を再確立するために行動を起こした時にはほとんど抵抗を示すことができなかった[10]。トゥグジュ・ブン・ジュッフはムハンマド・ブン・スライマーン・アル=カーティブ英語版の下で侵攻してきたアッバース朝軍に投降し、その見返りとしてアレッポの総督に任命された[7]。しかし、その後すぐにムハンマド・アル=カーティブが宮廷の陰謀の犠牲になり、トゥグジュ・ブン・ジュッフは息子のムハンマドとウバイドゥッラーとともにバグダードで投獄された。トゥグジュ・ブン・ジュッフは906年に獄中で死亡し、兄弟たちはその直後に解放された[7]

トゥグジュ・ブン・ジュッフの息子たちは、新しくカリフとなった若年のムクタディル(在位:908年 - 932年)を廃位し、年長者のアブドゥッラー・ブン・アル=ムウタッズ英語版を擁立しようとした908年12月の宮廷クーデターに関与した。クーデターの試みは失敗に終わったものの、ムハンマドとウバイドゥッラーは同様にクーデターに加わっていたフサイン・ブン・ハムダーン英語版の助けを借りてワズィールアル=アッバース・ブン・アル=ハサン英語版を殺害し、自分たちを投獄したことに対する復讐を果たした[11][12]。その後三人は逃亡し、フサイン・ブン・ハムダーンは出身地のジャズィーラに戻り、ウバイドゥッラーは東へユースフ・ブン・アビル=サージュ英語版のもとに向かい、ムハンマドはシリアへ逃れた[12]

逃亡先のシリアでムハンマド・ブン・トゥグジュは地方の税務監督官であるアブル=アッバース・アル=ビスタムに仕えた。そしてすぐに新しい主人を追ってエジプトに向かい、910年6月のビスタムの死後はその息子に仕えた[12]。やがてムハンマド・ブン・トゥグジュはエジプトの総督であるタキーン・アル=ハザリー英語版の注意を引くようになり、アンマンにおける地位とともにヨルダン川以北の地を治めるためにムハンマド・ブン・トゥグジュを派遣した[6][12]918年にはムクタディルの母親に仕える女官の1人が含まれていたメッカへの巡礼団ベドウィンの襲撃者から救出したことで、アッバース朝の宮廷において高い評判を得た[12]。2年後、ムハンマド・ブン・トゥグジュはファーティマ朝の侵攻英語版に対してエジプトの防衛を支援することになった際に、アッバース朝軍の最高司令官で実力者のムウニス・アル=ハーディム英語版のもとで短期間仕えたことをきっかけにムウニスの強力な後ろ盾を得た。この軍事行動の期間中、ムハンマド・ブン・トゥグジュはエジプトで最精鋭の部隊を指揮した。両者は信頼関係を築いたとみられ、その後も連絡を取り合っていた[13][14]

923年にタキーン・アル=ハザリーが総督としてエジプトに復帰した時、ムハンマド・ブン・トゥグジュはそこでタキーンに仕えたが、928年にタキーンがムハンマド・ブン・トゥグジュに対してアレクサンドリアの知事の職を与えることを拒否したことが原因となり両者の間で軋轢が生じた[15]。ムハンマド・ブン・トゥグジュは計略を用いてエジプトの首都のフスタートから逃れ、バグダードからパレスチナの総督の地位を得ることに成功した。当時パレスチナ総督の地位にあったアッ=ラシーディーはラムラの総督府からダマスクスへ逃亡し、ムハンマド・ブン・トゥグジュが総督の地位を継いだ。歴史家のジェレ・L・バカラク英語版によれば、アッ=ラシーディーの逃亡はムハンマド・ブン・トゥグジュが大規模な軍事力の指揮権を握っていたことを示している可能性がある[15]。3年後の931年7月にムハンマド・ブン・トゥグジュはダマスクスの総督に昇進し、アッ=ラシーディーはラムラに戻った[15]。これらの任命は両方ともムハンマド・ブン・トゥグジュとムウニス・アル=ハーディムの関係によるものであった可能性が高い。この頃のムウニスは自身の権勢の絶頂期にあった[15][16]

エジプトの占領編集

933年3月にタキーン・アル=ハザリーが死去し、その息子のムハンマド・ブン・タキーンが後継のエジプト総督に任命された。しかしながら、ムハンマド・ブン・タキーンはエジプトでの権力の確立に失敗した。ムハンマド・ブン・トゥグジュが同年8月に新しく総督として任命されたものの、エジプトへ赴任する1か月前に任命が取り消され、代わりにアフマド・ブン・カイガラグ英語版が任命された。ムハンマド・ブン・トゥグジュの任命が取り消された時期は、9月22日のカリフのカーヒル(在位:932年 - 934年)によるムウニスの逮捕(およびその後の処刑)と一致しており、ムハンマド・ブン・トゥグジュの任命もほぼ間違いなくムウニスによるものであったことを示唆している[6][17]。ムウニスの失脚後、カーヒルがダマスクスのムハンマド・ブン・トゥグジュに代わってブシュリーという名の宦官を送り込んだという事実はこの見方を裏付けている。ブシュリーはダマスクスと同時に任命されていたアレッポの総督を継ぐことはできたが、ダマスクスのムハンマド・ブン・トゥグジュはブシュリーとの地位の交代に抵抗し、ブシュリーを破って捕虜とした。その後、カーヒルはアフマド・ブン・カイガラグにムハンマド・ブン・トゥグジュを強制的に排除するように命じた。しかしながら、アフマド・ブン・カイガラグはムハンマド・ブン・トゥグジュに向けて進軍したにもかかわらず、両者は戦うことを避けて面会に及んだ。そして現状の維持と相互に支援することで合意に達した[18]

その後、エジプトはますます混乱の様相を深めていき、アフマド・ブン・カイガラグにはエジプトに秩序を取り戻すだけの能力がないことが明らかとなった。935年までに軍隊は俸給の不足をめぐって暴動を起こし、さらにはベドウィンの襲撃が再開された。同時にムハンマド・ブン・タキーンと財務長官のアブー・バクル・ムハンマド・ブン・アリー・アル=マーザラーイー英語版 — アフマド・ブン・トゥールーンの時代からエジプトの財政を支配し、莫大な富を蓄えてきた世襲官僚の継承者[19][20] — がアフマド・ブン・カイガラグの立場を弱体化させ、その地位を望むようになった[21]。そしてムハンマド・ブン・タキーンを支持するトゥルク人兵士を中心とする東部出身者(マシャーリカ)と、アフマド・ブン・カイガラグを支持するベルベル人と黒人を中心とする西部出身者(マガーリバ)の間で軍事衝突に発展した[22]

この頃にムハンマド・ブン・トゥグジュは以前のアッバース朝のワズィールで西部地方の監査官であるアル=ファドル・ブン・ジャアファル・ブン・アル=フラート英語版(息子のジャアファル・ブン・アル=ファドル・ブン・アル=フラート英語版はムハンマド・ブン・トゥグジュの娘の一人と結婚し、イフシード朝のワズィールとなった)の支援を得たことで再びエジプトの総督に任命された。ムハンマド・ブン・トゥグジュは直接エジプトへ向かう危険を冒さずに陸と海からエジプトへ侵攻する軍隊を組織した。アフマド・ブン・カイガラグは進軍を遅らせることには成功したものの、最終的にムハンマド・ブン・トゥグジュの艦隊がティンニース英語版ナイルデルタを占領し、首都のフスタートに向けて進軍した。策略で後手に回り、戦闘で敗北したアフマド・ブン・カイガラグはファーティマ朝へ逃亡した。勝利したムハンマド・ブン・トゥグジュは935年8月26日にフスタートに入った[23][24]

ムハンマド・ブン・トゥグジュはエジプトの首都を支配下に収めたものの、そのことによってすぐにファーティマ朝と対決する必要に迫られた。ムハンマド・ブン・トゥグジュへの服従を拒否したマガーリバは、ハバシー・ブン・アフマドの統率の下でアレクサンドリアへ逃れた。そしてファーティマ朝のカリフのカーイム英語版(在位:934年 - 946年)がマガーリバをファーティマ朝の統治下にあるバルカへ招き入れ、マガーリバの支援の下でエジプトへの侵略を試みた[25][26][27]。ファーティマ朝の当初の侵略は成功を収めた。ベルベル人のクターマ族の軍隊がナイル川ローダ島を占領し、武器庫を焼き討ちした。ムハンマド・ブン・トゥグジュの海軍の提督であるアリー・ブン・バドルとバジュカムがファーティマ朝へ投降し、アレクサンドリアは936年3月にファーティマ朝の軍隊によって占領された。それにもかかわらず、3月31日にムハンマド・ブン・トゥグジュの兄弟のアル=ハサンがアレクサンドリアの近くでファーティマ朝軍を打ち破り、都市からファーティマ朝の軍隊を追い出すとともにエジプトからバルカの拠点へ撤退させた[25][27][28]。ムハンマド・ブン・トゥグジュはこれらの軍事行動が継続している間、特に軍隊による略奪を禁じていた。バカラクによれば、これは「エジプトで定着することに向けた長期的な視点」に立っていたことを示している[29]

エジプトの統治編集

 
ヒジュラ暦333年(西暦944年/945年)にパレスチナで鋳造されたイフシードのディナール金貨。942年以降、イフシードはカリフの名とともに自身の名と称号(ムハンマド・アル=イフシード)を硬貨に刻んだ[30]

936年にアッバース朝のカリフのラーディー(在位:934年 - 940年)に手紙を記したムハンマド・ブン・トゥグジュは、称賛に値する記録 — ファーティマ朝の侵略を打ち破り、地域内の財政状況を改善するために最初の措置を講じた — を報告することができた。カリフはムハンマド・ブン・トゥグジュの地位を追認し、栄誉の賜衣(ヒルア)を送った[31]。歴史家のヒュー・ナイジェル・ケネディ英語版が記しているように、「ある意味ではファーティマ朝の脅威は実際にムハンマド・ブン・トゥグジュを助けた」。なぜならば、ムハンマド・ブン・トゥグジュがアッバース朝を支援している限り、「カリフは見返りとしてその支配に承認を与える用意ができていた」からである[32]。アッバース朝の宮廷における名声は、もともとは祖先の故郷であるフェルガナの王たちが称していた「イフシード」のラカブ(尊称)を求めるのに十分なものであった。938年に出されたこの要求に対する正式な承認は939年7月まで先延ばしされたものの、カリフのラーディーは最終的にこの要求を認めた。承認を受けたのち、ムハンマド・ブン・トゥグジュはこれ以降この新しい称号でのみ呼ぶように求めた[28][32][33]

イフシードの国内政策がどのようなものであったかはほとんど知られていない[2]。それにもかかわらず、その治世中における国内問題に関する史料上の沈黙は、迅速に鎮圧された942年の小規模なシーア派の反乱を別とすれば、かつてのベドウィンの襲撃や物価の高騰による都市の暴動、ないしは軍隊や王家の陰謀や反乱といった状況とは全く対照的であり、イフシードがエジプト国内の安定と秩序ある統治の回復に成功したことを示している[29]。イブン・ハッリカーンの人名辞典は、イフシードについて、「毅然とした君主であり、戦争においては優れた戦略を示し、自身の帝国の繁栄のために細心の注意を払っていた。そして軍人を名誉をもって扱い、その能力と正義によって統治した」と記している[3]。イフシードにとって対抗者となる可能性があったムハンマド・ブン・タキーンとマーザラーイーは説得を受け入れて新しい政権に参与した[29][32]。イフシードのエジプトへの侵攻中、マーザラーイーは自身の部隊が早々に逃亡した中でイフシードに対して無謀な抵抗を試みたために、当初はイフシードによって投獄されていた。その後、939年になって解放されるとすぐに地位と影響力を回復し、946年にはイフシードの息子で後継者となったアヌージュールに短期間摂政として仕えた。しかしながら、地位を追われて一年間投獄され、その後は引退して957年に亡くなるまで静かに暮らした[20][28]。また、かつてのトゥールーン朝と同様に、イフシードもトゥルク人と黒人の奴隷兵を含む大規模な軍隊を作り上げることに特別な注意を払っていた[29][32]

外交政策とシリアをめぐる抗争編集

イフシードはエジプトの統治者兼軍司令官として忍耐強く慎重に振る舞った。そしてバグダードのアッバース朝政権の実力者との交渉と結びつきによって、実力行使に及んだ場合と同程度に多くの目標を達成した。また、イフシードは実力行使に出る場合でも可能な限り直接的な軍事対立を避ける傾向にあった。アフマド・ブン・カイガラグと対立した際の行動はそのことをよく示している。当初イフシードは直接戦うことをせず、休戦を成立させることで行動を起こす前にエジプトの状況を探る時間を得た[34]

イフシードはアフマド・ブン・トゥールーンと同様の足跡をたどったが、シリアとその他のアッバース朝の領域に対する政策において特に明らかであったように、その野心はより控えめであり、目標はより現実的であった[32]。歴史的にシリア、特にパレスチナの保有は、エジプトへの最も重要な侵入路を防ぐ必要性から、エジプトの多くの支配者にとって外交政策上の重要な目標となっていた。イフシードより前の時代のアフマド・ブン・トゥールーンと後の時代のサラーフッディーンは、シリアの支配を確保するためにその治世において多くの労力を費やし、実際にその目標を達成するために歳入と資源の大部分の調達先としてエジプトを利用した典型的なエジプトの支配者の例であった[35]。しかし、イフシードはこれらの支配者とは異なっていた。バカラクはイフシードを「慎重で保守的な現実主義者」と表現している[36]。イフシードの目標は限定的ではあったものの明確だった。主な関心事はエジプトの安定化とエジプト一帯を支配する世襲王朝としての家門の確立であり、シリアの支配は副次的な目標に留まった[37]。また、当時の他の軍閥の有力者とは異なり、イフシードは全権を有するアミール・アル=ウマラー(大アミール)の官職を通じてバグダードとアッバース朝政権を支配する争いに加わる意思はなかった。実際にカリフのムスタクフィー(在位:944年 - 946年)がその地位を与えると持ちかけた時にイフシードはその提案を断っている[38]

イブン・ラーイクとの対立編集

 
9世紀のアッバース朝統治下におけるシリアとその軍事区(ジュンド)を表した地図。

エジプトからファーティマ朝の軍隊を排除した後、イフシードは軍隊を派遣してアレッポに至るシリア全土を占領した。そして、かつてアフマド・ブン・トゥールーンが行ったように、シリア北部に対する支配を強化するために現地の部族であるキラーブ族英語版と同盟を結んだ[39]。シリアの総督として付託された権限はキリキアビザンツ帝国(東ローマ帝国)との国境地帯(スグール英語版)にまで及んだ。その結果、936年と937年の間、もしくは937年と938年の間(恐らくは937年の秋)にイフシードは捕虜交換について交渉するためにビザンツ皇帝ロマノス1世レカペノス(在位:920年 - 944年)が派遣した使節団を迎え入れることになった。交渉はカリフのラーディーの名の下で行われたが、通常このような事案の連絡と交渉は地方の総督ではなくカリフに対して行われるものであったため、これは特別な名誉であり、イフシードの自治権に対する暗黙の承認でもあった。捕虜交換は938年の秋に実施され、6,300人のイスラーム教徒が同数のビザンツ人の捕虜との交換で解放された。ただし、ビザンツ側はアッバース朝側よりも800人多い捕虜を抱えていたため、これらの捕虜に対しては身代金を支払わなければならず、残りの捕虜は続く6か月の間に徐々に解放された[1][40]

936年から938年にかけて、バグダードではアミール・アル=ウマラーのイブン・ラーイク英語版がイフシードの以前からの同盟者でありワズィールに再任されていたアル=ファドルとともに権力を握っていた。この間、イフシードはバグダードと良好な関係を築いていた。しかしながら、イブン・ラーイクはトゥルク人のバジュカム・アル=マーカーニー英語版によって地位を追われ、その後、カリフからシリアの総督に任命された。そして939年にイフシードに対してその地位を要求するために西方へ進軍した[39][41]

イブン・ラーイクの任命はイフシードを激怒させ、イフシードは事情を明らかにするためにバグダードへ使者を派遣した。これに対してバジュカムは、カリフは自分が選んだ者を任命したかもしれないが、結局のところそこは重要ではないと話した。そして誰がシリア、さらにはエジプトの総督であるかを決めるのは軍事力であり、名目的なカリフによる任命ではないとし、イブン・ラーイクとイフシードのどちらかが紛争で勝利を収めた場合、すぐにカリフによって追認されるだろうと伝えた[42]。この返事はイフシードのさらなる怒りを買った。そしてしばらくの間、娘の一人をファーティマ朝のカリフのカーイムに嫁がせ、アッバース朝が自身の地位を正式に再確認するまで自らの硬貨を鋳造し、金曜礼拝の説教(フトバ英語版)をアッバース朝のカリフではなく自分の名の下で朗誦させると脅したと伝えられている[39][43][44][注 1]

ラッカから進軍したイブン・ラーイクの軍隊はイフシードの兄弟のウバイドゥッラーが総督を務めていたシリア北部を速やかに占領し、エジプト軍は南方へ撤退した。939年10月か11月までにイブン・ラーイクはラムラに到達し、さらにシナイ半島へ向かった。一方でイフシードはイブン・ラーイクに対抗するために自身の軍隊を率いて進軍した。そしてファラマにおける短期間の戦闘の後に両者はシリアを分割することで合意した。合意によってラムラ以南の地域がイフシードの支配下に入り、その他の北方の地域がイブン・ラーイクの支配下に入った[42]。しかし、940年5月または6月にイフシードはイブン・ラーイクが再びラムラに向かったことを知り、戦いのために再度軍隊を率いることになった。この二度目の戦争において、イフシードはアリーシュで敗北を喫したものの、すぐに軍隊の立て直しに成功した。そしてイブン・ラーイクを迎撃してエジプトへの侵入を完全に阻止し、イブン・ラーイクはダマスクスへの撤退を余儀なくされた[36]。さらに、イフシードは兄弟のアブー・ナスル・アル=フサインに別働隊を与えてイブン・ラーイクを攻撃した。しかし、今度はイブン・ラーイクがラッジューン英語版で勝利を収め、アブー・ナスルは戦死した。イブン・ラーイクは勝利を得たものの、最終的に和平を結ぶことを選択した。そしてアブー・ナスルを名誉をもって埋葬し、息子のムザーヒムをエジプトへ使者として派遣した。自身の政治方針に忠実であったイフシードはこの和平の提案を受け入れた。イフシードは和平によって前年に合意した領土を回復した一方で、貢納として年間140,000ディナールをイブン・ラーイクに対して支払うことになった。この和平はムザーヒムとイフシードの娘のファーティマの結婚によってより確実なものとなった[36]

ハムダーン朝との対立編集

 
ヒジュラ暦331年(西暦942年/943年)にバグダードで鋳造されたナースィル・アッ=ダウラとサイフ・アッ=ダウラの名が刻まれたディナール金貨。

しかしながら、バグダードにおいて政治的な混乱が続いたためにこの平和は長くは続かなかった。941年9月にイブン・ラーイクはカリフのムッタキー(在位:940年 - 944年)の求めに応じて再びアミール・アル=ウマラーの地位に復帰したものの、かつてのような影響力は持ち合わせていなかった。イブン・ラーイクはもう一人の実力者でバスラを本拠地とするアブル=フサイン・アル=バリーディーの侵攻を食い止めることができず、カリフとともにバグダードを放棄してモスルハムダーン朝の支配者に助けを求めざるを得なくなった。その後まもない942年4月にハムダーン朝を統治していたアブー・ムハンマド・アル=ハサン(フサイン・ブン・ハムダーンの甥にあたる)がイブン・ラーイクを殺害し、カリフからナースィル・アッ=ダウラ英語版(王朝の守護者)のラカブを得て後任のアミール・アル=ウマラーとなった[47]

イフシードはこの機会に乗じてシリアを再度占領するために942年6月に自ら軍隊を率いてダマスクスへ遠征し、943年1月にエジプトへ引き上げた。同じ時期にハムダーン朝もシリアの領有権を主張したが、この時のイフシード朝とハムダーン朝のシリアに対する軍事行動に関する詳細は記録に残されていない[47]。その後、アミール・アル=ウマラーとしてのナースィル・アッ=ダウラの立場は弱体化し、943年6月にトゥルク人の将軍であるトゥーズーン英語版によって追放された。同年10月にムッタキーは新たにアミール・アル=ウマラーとなったトゥーズーンが自分を廃位するのではないかと恐れ、バグダードから逃れてハムダーン朝へ保護を求めた[48][49]。ナースィル・アッ=ダウラとその弟のサイフ・アッ=ダウラ英語版はカリフを保護したものの、二度にわたるトゥーズーンとの戦闘に敗れ[50]、最終的にトゥーズーンによるイラクの領有を認めることと引き換えにジャズィーラメソポタミア北部)とシリア北部がハムダーン朝に与えられることで944年5月に両者は合意に達した。ナースィル・アッ=ダウラはこの合意で支配が認められたシリア北部を奪うために従兄弟のアル=フサイン・ブン=サイード英語版を派遣した。イフシード朝の軍隊は投降するか撤退し、アル=フサインはジュンド・キンナスリーンとジュンド・ヒムス英語版を速やかに占領した[39][51]

その一方で、サイフ・アッ=ダウラとともに行動していたムッタキーはトゥーズーンが進軍してくる前にラッカへ逃れていたが、ナースィル・アッ=ダウラがカリフの滞在に対して不満を持つようになったために次第にハムダーン朝に不快感を抱くようになり、さらにはトゥーズーンに対する不信感から(早ければ943年の冬に)イフシードに手紙を書いて支援を求めた[51][52]。イフシードは速やかに軍隊を率いてシリアへ侵入することでこれに応えた。ハムダーン朝の守備隊はイフシードの軍隊を前にして撤退し、944年9月にイフシードはラッカに到着した。イフシードはイブン・ラーイクを殺害したハムダーン朝を信用せず、サイフ・アッ=ダウラが街を離れるのを待ってから街に入ってカリフと面会した。そしてムッタキーに対してトゥーズーンが危険な人物であることを指摘し、ともにエジプトへ来るか、少なくともラッカに留まるように説得を試みたものの、カリフはこの提案を拒否した。一方、ムッタキーもイフシードをトゥーズーンと戦わせようとしたが、イフシードはこれを拒否した[53][54]。結局、ムッタキーがバクダードへの帰還を望んだために、イフシードはカリフに2名の従者と兵を付け、ムッタキーが帰還を決心した旨とムッタキーに従うように促す手紙を書いてトゥーズーンに使者を送った[55]

最終的にイフシードは、886年にトゥールーン朝のフマーラワイフとカリフのムウタミド(在位:870年 - 892年)の間で結ばれた条約とほぼ同様の内容で条約を事実上再締結する合意を確保したため、会談は完全に無益なものとはならなかった。カリフは30年間のイフシードの子孫による世襲の権利とともに、エジプトとシリア(スグールを含む)、およびヒジャーズ(イスラームの二つの聖地であるメッカマディーナの名誉ある守護者としての責務も負っている)に対するイフシードの支配権を認めた[26][32][39][56]。イフシードは前年にエジプトを離れていた際に、まだ成年に達しておらず、忠誠の誓い(バイア英語版)を立てさせる必要があった息子のアヌージュールをすでに摂政として指名していたために、この世襲の承認は当初から見込まれていたものだった[47]。しかしながら、歴史家のマイケル・ブレットが指摘しているように、ヒジャーズの聖地がカルマト派の襲撃にさらされ、国境地帯のスグールはビザンツ帝国によってますます脅かされつつあり、さらにはハムダーン朝がアレッポを含むシリア北部の領有を強く望んでいたために、カリフから与えられたこれらの地域は「ありがたくもあり、ありがたくもないもの」であった[26]

ムッタキーはトゥーズーンの忠誠心に疑いを抱いていたものの、結局トゥーズーン側の人物の言動を信用してバグダードへ向かった。しかし、944年10月にトゥーズーンとの会見に臨んだムッタキーはその場で捕えられ、盲目にされた上で退位させられた。そしてカリフの地位はムスタクフィーに取って代わられた[53][54][57]。その後、ムスタクフィーはイフシードの総督の地位を再確認した。13世紀の歴史家のイブン・サイード・アル=マグリビーは、自身が入手可能であった硬貨の証拠に基づいて、イフシードがすぐに忠誠の誓いを行い、新しいカリフの名の下で金曜礼拝のフトバを朗誦したと記録している[58]。しかしながら、バカラクは、イフシードがムスタクフィーとその後継者でブワイフ朝がカリフの地位に据えたムティー(在位:946年 - 974年)の両者ついて、自身が鋳造する硬貨に対してカリフの名の打刻をしばらく控える(この行為はバグダードからの意図的で明白な独立の意思表示とみなされ得る)ことで承認を数か月遅らせていたようにみえると指摘している[58]。このイフシードの自立を示す証拠は他の史料からも認められ、同時代にビザンツ帝国で著された『儀式の書英語版』では、宮廷の外交文書において、「エジプトのアミール」に対してバグダードのカリフに対するものと同じ4ノミスマ金貨に相当する価値の金印が用いられたと記録されている[59]

 
9世紀から10世紀にかけてのアッバース朝の分裂を表した地図

ムッタキーとの会談を終えたイフシードはエジプトへ戻ったものの、シリアへの野心を持つサイフ・アッ=ダウラに対してその領域を無防備な状態で残した。シリアに残されたイフシード朝の軍隊は比較的弱体であり、キラーブ族の支持を得たサイフ・アッ=ダウラは944年10月29日にほとんど困難を伴うことなくアレッポを占領した。そしてヒムスに向かい、シリア北部一帯へ支配地を拡大し始めた[39][60][61]。イフシードは宦官のアブル=ミスク・カーフル英語版とファーティクが指揮する軍隊をハムダーン朝に対して派遣したが、ハマーの近くで敗北し、エジプトへ撤退するとともにダマスクスとパレスチナを放棄してハムダーン朝に明け渡した[62]

この結果、イフシードは945年4月に直接指揮を執って再び軍事行動に出ることを余儀なくされたものの、同時にサイフ・アッ=ダウラに対して使者を派遣した。そこでイフシードはハムダーン朝の君主によるシリア北部の支配を認める代わりにイフシードがダマスクスとパレスチナを領有し、ハムダーン朝に対して毎年貢納を支払うという以前のイブン・ラーイクとの合意に沿った内容による協定の締結を提案した[62]。これに対してサイフ・アッ=ダウラは提案を拒否し、エジプトを征服すると豪語すらしたと伝えられている。しかし、イフシードの工作員が困難を伴いながらもハムダーン朝の何人かの指導者を賄賂で取り込み、ダマスクスの市民を味方に引き入れることに成功した。そしてダマスクスの市民はハムダーン朝に対して城門を閉ざし、イフシードのために城門を開いた。これによってイフシードは優位な立場を築いた。その後、イフシード朝とハムダーン朝の軍隊は5月にキンナスリーン付近で衝突し、イフシード朝が勝利を収めた。サイフ・アッ=ダウラはラッカへ敗走し、イフシードはアレッポを占領した[62]

これらの成功にもかかわらず、イフシードは概ね以前の提案に沿った内容で10月にハムダーン朝と合意に達した。イフシードは合意の中でシリア北部に対するハムダーン朝の支配を認め、サイフ・アッ=ダウラがダマスクスに対するすべての主張を放棄することと引き換えに毎年貢納を支払うことにさえ同意した。また、サイフ・アッ=ダウラはイフシードの娘か姪の一人と結婚することになった[62]。イフシードにとってアレッポの維持は、エジプトの東方の防波堤であるダマスクスが存在するシリア南部ほど重要ではなかった。そして、サイフ・アッ=ダウラの支配下に留まるという条件の下でハムダーン朝によるシリア北部の領有を積極的に認めた[63]。東洋学者のティエリ・ビアンキは、イフシードは歴史的にジャズィーラとイラクの影響を強く受けていたシリア北部とキリキアの支配を主張し、維持し続けることが難しいことを理解していたであろうと述べ、エジプトはこれらの遠方の地域に対する主張を放棄することによって、これらの地域における大規模な軍隊の維持費用を免れただけでなく、ハムダーン朝がイラクと復活を遂げたビザンツ帝国の双方からの侵略に対する緩衝国家として有効な役割を果たすことになったと指摘している[63]。実際に、直接国境を接していないこととファーティマ朝に対する共通の敵意が両者の利害が衝突しないことを保証していたために、イフシードとその後継者による統治の期間を通じてビザンツ帝国との関係はかなり友好的であった[64]。サイフ・アッ=ダウラがイフシードの死の直後に再びシリア南部への侵入を試みたにもかかわらず、この時に合意に達した境界線 — エジプトが支配するシリア南部とメソポタミアの影響下にあるシリア北部を分ける線 — は、シリア北部が1260年にエジプトのマムルーク朝によって占領されるまで、双方の王朝が存続した期間を超えて存在し続けた[61][65]

死と遺産編集

946年の春の半ばにイフシードはさらなる捕虜交換のためにビザンツ帝国へ使者を派遣した(最終的に捕虜交換はイフシードの死後の同年10月にサイフ・アッ=ダウラの支援の下で行われたと考えられている)。ビザンツ皇帝コンスタンティノス7世(在位:913年 - 959年)はこれに応じてヨハネス・ミュスティコス英語版が率いる使節団を派遣し、使節団は7月11日にダマスクスに到着した[1]。そして、イフシードはその後まもない946年7月24日にダマスクスで死去した[66]。有能な実力者である軍の最高司令官のカーフールが影響力を行使したことで、異論を挟まれることなく平和裡にイフシードの息子のアヌージュールが後継者となった。イフシードによって取り立てられた多くのアフリカ出身の黒人奴隷の一人であったカーフールは、その後20年にわたってエジプトの最高位の大臣であり、事実上の統治者であり続けた。966年には自ら統治者となり、その2年後の968年に死去した。そしてカーフールの死後の混乱の中で969年にファーティマ朝がエジプトを侵略して征服し、エジプトの歴史の中で新しい時代が始まることになった[67][68]

中世の歴史家は、イフシードと以前のトゥールーン朝の統治者たち、特にフマーラワイフ英語版との間の多くの類似点に注目した。マグリビーは、エジプトの占星術師の言葉を引用して、イフシードとフマーラワイフが同じ年の同じ日に、同じアセンダント英語版(占星術における星が昇る東の地平線)の同じ星の下でエジプトに現れたとさえ記録している[69]。しかしながら、両者には重要な違いがあった。ヒュー・ナイジェル・ケネディによれば、イフシードにはトゥールーン朝の「華やかさ」が欠けていた[32]アル=カターイ英語版に全く新しい首都と有名なイブン・トゥールーン・モスクを建設したアフマド・ブン・トゥールーンとは異なり、イフシードは芸術家や詩人たちのパトロンでもなければ重要な建設者でもなかった[69]。イフシードの外交政策における慎重さと自制といった点も他の同時代の人々や前後の時代のエジプトの支配者たちと比べて全く対照的であり、同時代の人々からはしばしば臆病者であると誤解され、極端に用心深いという評判を得ていた[70]

その一方で、イフシードはアフマド・ブン・トゥールーンと比べて教養では劣っていたものの、アフマドを手本として努力をしていたとマグリビーは記している[39]。また、イフシードを「気が短く大食漢であった一方で、抜け目がなく富に対して貪欲な傾向にあった」と説明しており、美しい物に価値を認め、外国から持ち込まれた贅沢品、特に香料を愛好していたと記録している。この外来の贅沢品への嗜好はフスタートの上流階級にも広まり、エジプトの地場の産品の様式と流行に影響を与え、職人たちによってその様式が取り入れられるようになった[39]

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 近代以前の中東地域では、フトバで支配者の名前を読み上げることは支配者の持つ二つの特権のうちの一つであった(もう一つは硬貨を鋳造する権利)。フトバにおける名前の言及は支配者の統治権と宗主権を受け入れることを意味し、イスラーム世界の支配者にとってこれらの権利を示す最も重要な指標と見なされていた[45]。反対にフトバで支配者の名前を省くことは公に独立を宣言することを意味していた。また、重要な情報伝達の手段でもあるフトバは、支配者の退位と即位、後継者の指名、そして戦争の開始と終結を宣言する役割も担っていた[46]

出典編集

  1. ^ a b c Lilie et al. 2013.
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  66. ^ Bacharach 1975, p. 609.
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  69. ^ a b Bacharach 1975, p. 610.
  70. ^ Bacharach 1975, pp. 610–612.

参考文献編集

日本語文献編集

  • 柴山滋「大アミールによるカリフ交代に関する一考察 : 大アミール・トゥーズーンの事例を中心に」『カルチュール:明治学院大学教養教育センター紀要』第5巻第1号、明治学院大学 機関リポジトリ、2011年3月、 63-77頁、 ISSN 188180992020年12月27日閲覧。

外国語文献編集

先代:
イフシード朝
初代:935年 - 946年
次代:
アヌージュール英語版