ヨネクラボクシングジム

ヨネクラボクシングジムは、かつて東京都豊島区目白二丁目に存在した、プロボクサー養成を主目的としたボクシングジム。運営は株式会社ヨネクラ.プロモーション[1]。2017年8月閉鎖[2]

株式会社ヨネクラ.プロモーション
Yonekura Promotion Co. Ltd.,
株式会社ヨネクラ.プロモーション本社
株式会社ヨネクラ.プロモーション本社
種類 株式会社
略称 ヨネクラ
本社所在地 日本の旗 日本
171-0031
東京都豊島区目白二丁目28番9号
北緯35度43分26.4秒 東経139度42分29.7秒 / 北緯35.724000度 東経139.708250度 / 35.724000; 139.708250座標: 北緯35度43分26.4秒 東経139度42分29.7秒 / 北緯35.724000度 東経139.708250度 / 35.724000; 139.708250
設立 1963年3月
廃止 2018年5月28日(法人格消滅)
業種 サービス業
法人番号 1013301013123 ウィキデータを編集
事業内容 ボクシングジムの運営
代表者 代表取締役 米倉健司
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沿革

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メルボルンオリンピック選手で、プロボクシング日本フライ級東洋太平洋バンタム級王者の米倉健司1963年3月に開設し、2017年8月に閉鎖するまで54年間会長を務めた。

ジムは当初、東京・大塚に「NPヨネクラジム」として開設し、1969年に目白に移転し、ヨネクラジムに名を改めた[3]

閉鎖するまでの54年間で5人の世界王者を生み出した。これは帝拳ジム協栄ジムワタナベジムに次いで角海老宝石ジム及びヨネクラ出身の世界王者だった大橋秀行が立ち上げた大橋ジムと並んで日本プロボクシング協会加盟ジム世界王者輩出数歴代4位の記録である。さらに東洋太平洋は8人・日本王者は歴代最多の31人にのぼり「日本一のチャンピオンメーカー」の異名を謳われた。また米倉がアマチュア出身だったこともあり、アマチュア選手の育成も行った。

柴田国明が世界王者だった1970年代には、BVDの日本法人(現在の富士紡ホールディングスとは違う会社)がスポンサーにつき「BVDヨネクラボクシングジム」という名称だった時期がある。

米倉は以前から「ジム経営は自分一代限り」と明言し、2017年4月、自身の年齢や体調等を理由に同年8月末をもってジムを閉鎖することを発表[4]、同年8月31日の最終日には成田城健(元日本ライト級王者)、西澤ヨシノリ(元日本ミドル級王者)らジムOBも駆けつけて最後の練習を見守り、ジムの歴史に幕を下ろした[5]。ヨネクラ.プロモーションは清算手続に入り、2018年5月28日に法人格が消滅した[1]

概要

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選手の性格に合ったボクシングスタイルを見つけ、育てることを信条としていた。ただし、一方では大多数の練習生がいることから実際には一人一人をみていないこともあるといわれており、畑山隆則も最初は所属していたが構ってもらえなかったことによりヨネクラジムを離れたという[6]

選手

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ジム出身世界王者

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在籍した主な選手(世界王者以外)

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ヨネクラジム所属プロボクサーならずに他の格闘技で活躍の練習生

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関連画像

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脚注

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  1. ^ a b 株式会社ヨネクラ.プロモーション国税庁法人番号公表サイト
  2. ^ 【ボクシング】閉鎖から5年、名門ヨネクラジムの系譜継ぐ出田裕一が苦節経て38歳で日本王座”. 日刊スポーツ (2022年11月8日). 2022年11月10日閲覧。
  3. ^ さよならヨネクラジム!「日本の名門」が閉鎖を決めるまで”. 現代ビジネス(講談社) (2017年8月19日). 2019年5月28日閲覧。
  4. ^ ヨネクラジム 8月閉鎖 ガッツ、大橋ら世界王者5人輩出の名門 - Sponichi Annex、2017年4月28日 05:30配信、同年5月14日閲覧
  5. ^ “ヨネクラジム55年の歴史に幕 OB成田氏ら集結”. ニッカンスポーツ・コム. 日刊スポーツ新聞社. (2017年8月31日). https://www.nikkansports.com/battle/news/1880778.html 2018年3月29日閲覧。 
  6. ^ "畑山隆則、大手ジムに見切りをつけた「運命の決断」を古舘伊知郎の動画で激白". Asagei plus. 徳間書店. 9 February 2022. 2025年4月9日閲覧

関連項目

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