ラティフンディウム

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ラティフンディウムラテン語: latifundium)またはラティフンディアlatifundialatifundiumの複数形)は、古代ローマにおける奴隷労働に頼った大土地経営である。語源としては、latus(広い)+fundus(土地)と考えられているが、共和政ローマ時代の史料にこの用語は存在せず、帝政ローマ時代のものにわずかに見られるだけである[1]

少なくとも1970年代から、古代ローマにおける農業の遷移を考古学的にも研究すべきという意見が出始め、エトルリアでの調査が行われたが、その結果として、一般的に紀元前2世紀中葉にはグラックス兄弟が改革を志した動機と言われるような、ラティフンディウムへの集約とそれに伴う中小農民の没落があったとは言えない可能性が高く、むしろ中小農民は農繁期の臨時労働力として併存していた可能性があることが指摘されている[2]。例えばT. W. ポッター1979年の著書の中で、グラックス時代に奴隷制ラティフンディウムが発達したか疑問を呈しているが、他にも考古学的にはポエニ戦争後の中小農民の没落に伴う大規模集約農場化という見方には否定的な知見が出ている[3]A. リントットは『ケンブリッジ古代史』9巻の中で、(考古学的には)中小農民の没落に根拠はないことを認めつつも、史料から読み取れる従来の説を支持している[4]

概要編集

第2ポエニ戦争後の、古代ローマの支配領域拡大期において、属州で広く行われた。ローマが新たな領土を獲得した際に、多くの農地が国有地としてローマが所有する事となった。その国有地はローマ市民に貸し出されたが、その多くは奴隷を多数所有、あるいは新たに購入できる貴族が借り受けた。そして貴族は実質上の大土地所有者となった。

形成期には奴隷による反乱が頻発した。

全ての貴族が大土地所有者となった訳ではなく、ラティフンディウムの利が得られず没落する貴族もいれば、平民でラティフンディウムに参画し経済的にのし上がった者もいる。これによりローマの貴族階級は、従来の貴族層であるパトリキに、従来の平民から勃興した階層を加え、新貴族階層であるノビレスの形成を見る。

ラティフンディウムでは主に、果樹や穀物が生産されたが、その目的が自給生産か商品生産かはまだ学会でも意見が分かれている(その双方、とも考えられる)。

影響編集

ラティフンディウムによって安価な食糧生産が可能になり、ローマに富が蓄積した。

一方で、ポエニ戦争で疲弊していた中小農民の没落に拍車をかけた。奴隷無しの家族経営、あるいは1人か2人の奴隷を使っての自作農は、安価な奴隷を大量に使役するラティフンディウムに対して、経営コスト的に太刀打ちができなくなった。彼らの多くは土地を失い、無産市民としてローマに流入し、大きな社会問題となった。

グラックス兄弟はこの問題に対処すべく、貴族による国有地の借り受けに制限を加え、多くの市民に配分する事を中心とした改革を実行しようとするが、元老院の反発によって挫折する。後にガイウス・マリウスは、無産市民を軍隊に吸収する事(マリウスの軍制改革を参照)によって解決した。さらにガイウス・ユリウス・カエサルは「ユリウス農地法」によって救済する。

とはいえ、大貴族と一般市民の不平等の解消については、いわゆるパンとサーカスによる所も大きい。これによりローマ市民は、ラティフンディウムによる収益の分け前を受け取る事となり、古代ローマの社会全体として奴隷の労働がローマ市民の生活を支える構造が生まれた。

その後編集

奴隷を労働力に頼ったラティフンディウムは、征服地の減少に伴う奴隷供給の低下とともに経営が行き詰まった。従来、安価な奴隷を使い捨てのように酷使して多大な収益を上げてきたのだが、奴隷が高価になると使い捨てる事が不可能になったのである。

そのため、奴隷の代わりに没落農民を労働力とする「コロナートゥス」の制度が代わって属州で進行する。これがやがて中世における農奴制へとつながっていく。

従来説への批判編集

アーノルド・J・トインビーは『Hannibal's Legacy: The Hannibalic War's Effects on Roman Life』の中で、第二次ポエニ戦争によってラティフンディウムが加速し、中小農民が没落して無産市民(プロレタリイ)化した結果、彼らが主力を担っていたローマ軍団の弱体化が起り、マリウスの軍政改革によって拾われた彼らは「内乱の1世紀」において有力政治家の私兵となって戦い、最終的な勝利者となったオクタウィアヌスが帝政を敷いたとし、これが長らく定説として広まっている[5]

しかし、上述の通り、当時の史料にほとんど使われていないことから、この用語は後世の歴史家によって使用されている概念にすぎず、非常にあいまいな使われ方をしている。『オクスフォード古典学辞典』においても、

と、様々な意味があるとされているが、イタリア統一後の南部地方は長らく自治を保っており、ローマ市民権を持った中小農民の没落が関係あるとは考えにくい。また、法規制後の合計500ユゲラの土地では、定説のようなラティフンディウムを展開出来たとも考えにくい。そのため、共和政期のラティフンディウムについては、ウィッラがどのような展開を見せていたかが重要となるという[6]

このラティフンディウムによる中小農民の没落の根拠とされる史料は、ふたつある。

古来、農地は控えめに所有すべしというのが、人々の考えだった。
ウェルギリウスも然り。
実際、ラティフンディアはイタリアを破滅させ(latifundia perdidere Italiam)、
今や属州をもそうさせようとしている。

大プリニウス博物誌』18.35

この大プリニウスの一節だが、例えばモーゼス・フィンリーは懐古的な修辞技法ではないかと考えており、事実かどうか疑わしいとする説がある[7]

ティベリウスヌマンティア戦争へ赴く際、
エトルリアを通りかかると、荒れ果てた土地が目に入ってきた。
また、そこで耕作に従事しているのは、外国人奴隷たちであったのだ。
それを知った彼の心中にある政策が浮かんだ。
しかし、それは彼らの破滅への第一歩であったのだ。

プルタルコス対比列伝』Ti.グラックス伝、8.7

エトルリアは紀元前7世紀末にはワインを大量生産していたことがわかっており、その後もローマとの強い経済関係を結んでいることから、長年にわたって商品作物を扱っていたことがうかがわれ、エトルリアが例外的であった可能性もある。近年行われた発掘調査によって、エトルリアにおける定説のような中小農民の没落については否定的な見解が出ており、奴隷を使役するウィッラの増加は、グラックス時代の紀元前2世紀ではなく、紀元前1世紀であるとの説が有力となってきている。また、ウィッラの増加についても地方差がかなりあるため、共和政期に全体的なラティフンディウムの展開が起っていたとは考えにくいという[8]

このように、少なくとも共和政期においては、ラティフンディウムの展開について、定説のように扱うことに否定的な意見が出てきている[9]

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ 鷲田(2016), p. 174.
  2. ^ 砂田(2008), p.4.
  3. ^ 砂田(2008), p.5.
  4. ^ 砂田(2008), pp. 6-7.
  5. ^ 鷲田(2016), p. 173.
  6. ^ 鷲田(2016), pp. 174-175.
  7. ^ 鷲田(2016), pp. 175-176.
  8. ^ 鷲田(2016), p. 176.
  9. ^ 鷲田(2016), p. 177.

参考文献編集

  • 砂田徹『「グラックス改革」再考』北海道大学文学部西洋史研究室、2008年。
  • 鷲田睦朗『「音楽堂のウィッラ」とウィッラ経済の進展』大阪大学文学研究科、2016年。