コロヌス英語:Colonus)とは、古代ローマ帝国後期にあったコロナートゥスにおける小作人制度。征服によって獲得した奴隷を使うラティフンディア制度が奴隷の数の減少によって崩壊したことにより登場した制度「コロナ―トゥス」での労働者身分であった。土地所有権はなく、土地所有者の耕地を耕して、小作料を負担を課せられていた[1]。後に、この制度が前身となって中世の「農奴制」へと変遷する[2][3]

古代ローマの奴隷

概要編集

ローマ帝政末期の小作人の名称。領主の土地に縛られて移転の自由をもたず、中世ヨーロッパ農奴の先駆的存在とされる、土地付き小作人制度であった。共和政末期と帝政初期のコロヌスは、契約に基き領主から土地を借り、定額の地代を支払った。地主との関係は法のうえでは対等であり、通常5年間の小作期間終了後は自由に土地を離れることができた。

この制度の以前のラティフンディウム奴隷との異なる点は、コロヌス達が「自由農民」としての色合いも帯びていたことであり、奴隷のように労働力を総どりはされなかった点にあった。コロヌスは前期は自由民であり、ローマ市民権も有し、奴隷に比べて比較的自由な生活を営むことが許された。しかし、後にローマ皇帝コンスタンティヌス1世がコロヌス達の自由な移動を禁止し、異身分間の婚姻を禁じ、自由をはく奪された。そうした半奴隷の小作人が、後に封建社会での自由な移動が制限された「農奴」となって農奴制を支え、領主と農奴の絶対服従関係からなる中世封建社会へと変遷し、名実ともに「中世」と成った。こうして古代ローマ末期の社会構造は、市民と奴隷からなる奴隷制社会から、中世の封建社会へと変遷する[4][2][3]

歴史編集

以前編集

 
Skrzelczyceのラティフンディウム農園跡

ローマ帝国の後期、軍人皇帝が乱立した3世紀の危機の後、従来の古代ローマ経済を支えていた奴隷を労働力に頼ったラティフンディウムは、古代ローマの征服地の減少[注釈 1]に伴う奴隷供給の低下とともに経営が行き詰まった。早くも1~2世紀には廃れ始めていたこのラティフンディウム制度は、従来、安価な戦利品として獲た(主に辺境の属州の)奴隷を使い捨てのように酷使して多大な収益を上げてきたのだった[5]

しかし、不足によって奴隷が高価になると、使い捨て同然で労働させる事が不可能になり、慢性的な働き手の不足という経済的に深刻な事態に陥ったのである。また、そのような戦利品奴隷が廃れたのちに発展し、主流となっていった「捨て子奴隷」の制度[6]も慢性的な古代ローマの人口減少により、この奴隷制度は早くも1~2世紀には廃れ始めていた。そのため、長年パックス・ロマーナを支え続けた奴隷制ラティフンディアは限界に達していた[5]

起源編集

コロヌスの起源については奴隷、解放奴隷およびその子らが小作人化したり、ローマ帝国に居住したゲルマン人やクリエンテラが徴税の必要上身分を固定された、など諸説ある。ローマ共和政の末期頃から史料に現れるが、ローマ帝政期に入ってラティフンディウム奴隷制の占める比重が下がってくるとともに、農業における生産者層としての重要性を増し、その数も増えた。共和政末期と帝政初期のコロヌスは、契約に基き領主から土地を借り、定額の地代を支払った[5]。地主との関係は法のうえでは対等であり、通常5年間の小作期間終了後は自由に土地を離れることができた。

コロヌスの登場編集

そこで2世紀頃になると、古代ローマの大土地所有者である大富豪(大半は貴族階級)たちは最早機能しなくなった従来のラティフンディウム制に代わる新たな制度、即ち奴隷の代わりに没落農民を労働力とする「コロナートゥス」を用いるようになり、ラフレンティウムに代わって属州で進行する事となる。その働き手であった小作人の呼称が「コロヌス」であり、この語は小作人の事を意味し、没落農民などを雇い[5]労働させると言う制度だった。彼らは奴隷とは違い自由人であり、またアントニヌス勅令によりローマ市民権を有しており [7]、財産を持つ権利あるいは子孫に財産を贈与する権利などを有していた。彼らコロヌスは自らの財産を殖やすために自発的に働く事が期待できたので、これから地代を取り立てることにより収益を増やすという方針に転換したのである。

また、3世紀初頭頃には戸口調査の際に、領主は自らの土地にいて労働するコロヌスを奴隷などとともに人数を申告するこが義務付けられた。一方属州では、もともと奴隷制よりはなんらかの形態の小作制のほうが優位を占めていた地方が多かったが、ドれぞれの属州の伝統や慣習に応じて多様な制度であった。

そこで大土地所有者である貴族は、奴隷の代わりに没落農民をコロヌス、即ち小作人として使うようになった。コロヌスは貴族の旧ラティフンディウム農園で働き、コロナ―トゥス制における農業生産性の土台と成った。属州で普及していた分益小作がイタリアにも取り入れるようになった[8]。以前のラティフンディウム奴隷との異なる点は、コロヌス達が「自由農民」としての色合いも帯びていたことであり、奴隷のように労働力を総どりはされなかった点にあった。ローマの政体も軍人皇帝期に入り、各地方の軍閥が割拠する時代となり経済基盤のコロナートゥス化によりローマ帝国は帝国としての求心力を失う要因となった。

特に浸透した帝国西部のヒスパニアガリア等では、今まで都市経済の繁栄を支えていた裕福な都市市民がローマ帝国による増税を恐れて[注釈 2]農村に所領を構え、「ヴィッラ」と呼ばれる居城も構えるようになった。これにより都市の衰退を招くとともに、地方領主らによる分権化が進んだ。それと同時に、属州の有力者たち(領主、大富豪など)はコロヌスの労働から利益を得、力を蓄えたのだった[4]。裕福なローマの地主は、奴隷にされた没落農民などを意欲と言う意味でも上回るコロヌス達を働き手とする事を好むようになり、代わって従来の奴隷制はすたれてゆく[5]

その後の変遷編集

しかし、3世紀の危機の収束後のローマ皇帝コンスタンティヌス1世が332年に出した勅法、いわゆる「コロヌスの土地緊縛令」より一層生産性を上げる目的でコロヌス達の移動を禁止し[5]、その他にも異身分間の婚姻の禁止、課税等の規制の施行も行われたたため、移動の自由、その他の「ローマ市民」としてのさまざまな権利が奪われ、本来の「自由小作人」としての意味合いが薄れた身分となる。

他人の権利に属するコロヌスが身を寄せたることを発見せられし者は、当人をその原籍地に返還するのみならず、その逃亡期間の人頭税をも支払うべきものとす。逃亡を企てたるコロヌスに対しては、主人はこれを鎖に縛し、自由人にふさわしき仕事を奴隷にふさわしき方法により行わしめよ[1]

これはコロヌスを領主の土地につなぎ止めて移動の自由を奪い、労働させることを目的とした物であり、この法令はコンスタンティヌス1世の身分固定の政策に関連したものであった。また、減じる一方であったローマ帝国の税収を挙げ、農業生産力を高める狙いもあった。一方で、コロヌスは同じ身分の女性との結婚のみが認められる事と成り、その間に産まれた子はコロヌス身分を引き継ぎ、親の仕えた領主のもとで労働に喘いだ。すなわち、コンスタンティヌス1世のこの法令により、身分としてもコロヌスは固定されたのであった。しかしながらそれでも、従来のラティフンディウム奴隷に比べれば、彼ら小作人は権利を有し、比較的絶対隷属的ではないた存在であった。

また、357年の新たなコンスタンティヌス1世が発した勅法では、土地を売却あるいは贈与しようとするものが、その土地にいるコロヌスを手もとに残して他の土地に転用することが禁じられた。コロヌスは完全に土地に縛りつけられた存在となった[1]

こうして古代ローマ末期の社会構造は、市民と奴隷からなる奴隷制社会から、領主と農奴からなる農奴制へと移行していき、中世封建社会へと変遷する。そうしたコンスタンティヌス1世らによってや様々な規制等が設けられ、半奴隷の身分に陥った小作人・コロヌス達が、後の封建社会での自由な移動が制限された「農奴」となって「農奴」制度の基礎となることになったのである。後に「農奴」という身分となったコロヌスらの過酷な労働により、領主と農奴の絶対服従関係を中心とする中世封建社会を形作っていく事と成る。そうした半奴隷の小作人が、こうして古代ローマ末期の社会構造は、市民と奴隷からなる奴隷制社会から、中世の封建社会へと変遷し、古代とは異なる意味合いを帯びる[4]

なお、コロヌスとよばれる小作人たちは中世初期の西ヨーロッパにも存在したが、やがて封建的隷属農民の階層のなかに合流して行く事と成った。

注釈編集

  1. ^ 制服が停滞、即ち「ローマ帝国の完成」[5]
  2. ^ 帝国の人口不足による富豪への税収の一極化が起こっていたことが背景にあった

参考文献編集

  1. ^ a b c https://www.y-history.net/appendix/wh0103-096.html
  2. ^ a b The Pictorial History of England: Being a History of the People, as Well as ... - George Lillie Craik, Charles MacFarlane - Google Książki”. 2020年6月閲覧。
  3. ^ a b The Edinburgh Review, Or Critical Journal: ... To Be Continued Quarterly - Google Książki”. 2020年5月閲覧。
  4. ^ a b c ギボン『ローマ帝国衰亡史』 筑摩書房、1976年11月-1993年9月
  5. ^ a b c d e f g 『ローマ史』本村凌次 著、p260、PHP研究所
  6. ^ 『薄闇のローマ世界』本村凌次 著
  7. ^ (Humfress 2013)P87
  8. ^ 『浅香正著「大土地所有の発展とコロナート制の成立」(『岩波講座 世界歴史2 古代2』所収・1969・岩波書店) ▽弓削達著『地中海世界とローマ帝国』(1977・岩波書店)』

関連項目編集