ラリーサ・シェピチコ
ラリーサ・エフィモヴナ・シェピチコ(ロシア語: Лари́са Ефи́мовна Шепи́тько, ラテン文字転写: Larisa Efimovna Shepit'ko, 1938年1月6日 - 1979年6月2日)は、ソビエト連邦の映画監督、脚本家。
ラリーサ・エフィモヴナ・シェピチコ Лари́са Ефи́мовна Шепи́тько | |||||||||
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生年月日 | 1938年1月6日 | ||||||||
没年月日 | 1979年6月2日(41歳没) | ||||||||
出生地 |
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死没地 |
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職業 | 映画監督・脚本家 | ||||||||
主な作品 | |||||||||
『処刑の丘』 | |||||||||
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略歴編集
全ソ国立映画大学で映画を学び、大学ではオレクサンドル・ドヴジェンコに付いて、ドヴジェンコが亡くなる1956年までの18か月間師事した。1977年、自身が監督をつとめた戦争ドラマ映画『処刑の丘』が、第27回ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞する[1]。 それから間もない1979年、ヴァレンチン・ラスプーチンの小説『マチョーラとの別れ』を映画化するロケハンのため訪れていたカリーニン州で、自動車事故により死去。同作はその後、夫であり映画監督であるエレム・クリモフが映画『別れ』として完成させた。
フィルモグラフィ編集
- 『処刑の丘』 - Восхождение (1976年、監督・脚本、金熊賞受賞)
- 『別れ』 - Проща́ние (1981年、脚本)
脚注編集
- ^ 1977 : Prize Winners, Internationale Filmfestspiele Berlin, オリジナルの2014年5月2日時点におけるアーカイブ。 2014年6月29日閲覧。
外部リンク編集
- ラリーサ・シェピチコ - allcinema
- Larisa Shepitko - IMDb(英語)