レイ・ブラウン (野球)

アメリカ合衆国の野球選手 (1908-1965)

レイモンド・ブラウン(Raymond "Ray" Brown, 1908年2月23日 - 1965年2月8日)は、1930~1950年代にアメリカ合衆国ニグロリーグやラテンアメリカの野球リーグで活躍していた野球選手。主なポジションは投手オハイオ州アッシュランドグローブ生まれ。右投げ、スイッチヒッター。1930年代後半から1940年代のホームステッド・グレイズの黄金期を支えた。投手として28連勝というニグロリーグの記録を持つ。

レイ・ブラウン
Ray Brown
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 オハイオ州アッシュランドグローブ
生年月日 1908年2月23日
没年月日 (1965-02-08) 1965年2月8日(56歳没)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 投手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
  • デイトン・マルコス(1930年)
  • インディアナポリス・ABC's(1931年)
  • デトロイト・ウルヴス(1932年)
  • ホームステッド・グレイズ(1932-1945,1947-1948年)

その他:

  • メキシカンリーグ(1939,1946-1949年)
  • カナディアンリーグ(1950-1953年)
殿堂表彰者
選出年 2006年
選出方法 ニグロリーグ特別委員会による選出

来歴・人物 編集

ブラウンはプロの野球選手になる前、オハイオの高校からウィルバーフォース大学に通いながら、地元デイトンの球団などで野球をしていた。当時カム・ポージーが所有していたホームステッド・グレイズと契約したのは大学在学中の1932年のことで、1935年に大学を卒業するまではオフシーズンに大学通いを続けていた。1935年に大学を卒業しプロの選手になると、ブラウンは球団所有者であるポージーの娘と結婚(野球場のホームプレート前で式を挙げたという)、その後選手生活をずっとグレイズで過ごす。ブラウンは当時速球のほかに優れたコントロールのカーブとシンカーを操り、ベテラン選手になってからはナックルボールまで投げていたそうである。

大学を卒業したブラウンは、1935年にニグロリーグで12勝3敗という成績を収める。この年は打撃の面でも活躍をみせ、登板のない試合では外野手として出場していた。翌1936年に、ブラウンはデンバーの新聞社が選ぶニグロ・ナショナル・リーグのオールスター選手にも選出される。強力なグレイズの打線の後ろ盾もあり、ブラウンはこの年から翌1937年にかけ、28連勝という途方もない記録をつくっている。

1939年はグレイズとの契約がこじれてしまい、ブラウンはメキシコリーグに活躍の場を求めた。1940年にグレイズに復帰すると18勝3敗、防御率2.53の成績を上げ、1941年には前の年からの連勝記録を27連勝にまで伸ばし、グレイズをリーグ5連覇に導いた。またこの年のニューヨーク・キューバンズとのリーグ優勝決定戦で完封勝利を上げ、打つ方でも本塁打と二塁打を放つ活躍をしている。更に1941年のオフシーズンにはプエルトリコのリーグに参加して、12勝4敗、防御率1.82と活躍し最多勝利投手にもなっている。ブラウンは1942年までニグロリーグで毎年二桁の勝ち星を挙げていたが、1943年以降は徐々に成績が低下してきていた。ただプエルトリコのリーグでは相変わらず好投を続けていたそうで、プエルトリコリーグへの参加は都合6シーズンにもなった。

1946年にブラウンはグレイズを離れ、1949年まで4年間メキシコリーグに参加した。メキシコリーグでは4年間で51勝32敗という成績を残し、防御率は毎年3.50前後を記録している。また1948年シーズンオフには、ベネズエラリーグでカラカスの監督を勤めている。1950年からはカナダのプロヴィンシャル・リーグで3年間プレーし選手を引退した。引退後は、再婚して数年の間カナダで暮らしていたようである。1965年にオハイオ州デイトンで死去。2006年ニグロリーグ特別委員会アメリカ野球殿堂入り選手に選出した。

記録・表彰等 編集

  • 通算投手成績:109勝30敗

出典・外部リンク 編集