ヴァレリー・ボリソヴィチ・ハルラモフロシア語: Вале́рий Бори́сович Харла́мов, ラテン文字転写: Valeri Borisovich Kharlamov1948年1月14日 - 1981年8月27日)は、ソビエト連邦(現在のロシア)のアイスホッケー選手。

ワレリー・ハルラモフ
生誕
出生地
1948年1月14日
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の国旗 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ
死没 1981年8月27日 (33歳)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国ソルネチノゴルスク英語版
身長
体重
5 ft 8 in (1.73 m)
165 lb (75 kg; 11 st 11 lb)
ポジション 左ウイング
ショット 左打ち
所属したチーム HC CSKAモスクワ
代表 ソビエト連邦
プロ選手期間 1967年 – 1981年
2005年殿堂入り
獲得メダル
男子アイスホッケー
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
オリンピック
1972
1976
1980
アイスホッケー世界選手権
1969
1970
1971
1972
1973
1974
1975
1976
1977
1978
1979

ヴラジーミル・ペトロフボリス・ミハイロフと共に「黄金のトロイカ」といわれた。

経歴

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現役時代

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1967-68シーズンから1980-81シーズンまでソビエト連邦の国内リーグであるソビエト・チャンピオンシップリーグで14シーズン、436試合HC CSKAモスクワでプレーし293ゴール、214アシストをあげ、その間11回優勝を味わった[1]

ヴラジーミル・ペトロフボリス・ミハイロフのトリオでソビエトリーグでは1086ゴール、 ソビエト連邦代表ロシア語版では538ゴールをあげた[2]アイスホッケー世界選手権での歴代ポイントランクでミハイロフが98得点、71アシストの169ポイント、ハルラモフが74得点、85アシストの159ポイントで2位、ペトロフが74得点、80アシストの154ポイントで歴代4位となった[2]。1973年にはこのラインで86ポイントと1回の世界選手権における最多ポイントをあげている[2]

1972年の札幌オリンピックで金メダルを獲得。当時オリンピックに出場できなかったNHL選手との対戦となったサミット・シリーズでもチームメートのウラディスラフ・トレチャクらとともに活躍した。爆発的なスピード、敏捷性、得点力を兼ねそろえた彼はカナダのファンも虜にした[1]。なおこのシリーズにおいて最もペナルティを与えられた選手でもあり、彼以上のペナルティはボビー・クラークと審判と口論したJ・P・パリゼ英語版だけであった。第6戦でボビー・クラークのスティックによる打撃で左足首を骨折したがプレーを続け、第7戦、第8戦は欠場した[3]。シリーズ終了後、NHLのトロント・メープルリーフスミネソタ・ノーススターズのスカウトはハルラモフの獲得を目指したが[4]冷戦の最中であり鉄のカーテンが存在した時代であり、ソ連の選手がNHLに移籍することはかなわなかった。1974年のWHAとのサミット・シリーズにも出場している[5]

1975-76年のスーパーシリーズHC CSKAモスクワの一員として出場したが、その最終戦となったフライヤーズとの試合でエド・ファンインプ英語版のチェックで脳震盪を起こし意識を失った。ハルラモフらに対するフライヤーズの選手たちによるラフプレーがあまりにもひどかったため、ソ連のコーチであるコンスタンティン・ロクテフは第1ピリオドで選手をリンクから引き上げさせたがフライヤーズオーナーがルールに従った試合を約束したため試合は続けられた[6]。この試合に対してボビー・ハルは「スティックは惨殺者になるためにわれわれに与えられているのではなく、観客に楽しい試合を見せるためにあるのだ。」、ニューヨーク・タイムズは「ホッケーにテロが勝った」と評した[7]

1976年の春に結婚したが、交通事故に遭い、夫婦そろって病院で過ごすこととなった[8]

1980年のレークプラシッドオリンピックではアメリカ合衆国代表に敗れ、銀メダルとなった(氷上の奇跡)。

その後、1981年8月27日のバカンスからの帰途に夫妻で再度交通事故に遭い、33歳で亡くなった[1][5]

死後

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1998年に国際アイスホッケー連盟殿堂入りを果たした。

2005年11月にはカム・ニーリーカナダアイスホッケー協会元会長のマレー・コステロと共にホッケーの殿堂入りを果たした。NHLでプレーしていない選手としてはウラディスラフ・トレチャクに次いで史上2人目の殿堂入りであった。

2003年よりNHLの最優秀ロシア人選手にハルラモフ杯英語版が贈られている。

2008年4月に行われた世界16カ国の専門家56名による投票で、国際アイスホッケー連盟20世紀オールスターチームの一員に選ばれた[9]

2013年にハラルモフを描いた映画『伝説の17番』がロシアで制作、公開された。ダニーラ・コズロフスキーがハラルモフを演じた。

人物

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彼の母親はスペインバスク地方出身でスペイン内戦難民となり、ソ連に移住した。

詳細情報

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記録

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  • ソビエトリーグ優勝:11回
  • アイスホッケー世界選手権優勝:8回
  • オリンピック金メダル2回、銀メダル1回
  • ソビエトリーグMVP:2回(1972年、1973年)
  • ソビエトリーグオールスター:7回(1971年-1976年、1978年)
  • ソビエトリーグ得点王:1回(1971年)
  • ソビエトリングポイント王:1回(1972年)
  • 世界選手権最優秀フォワード:1回(1976年)
  • 国際アイスホッケー連盟オールスター:4回(1972年、1973年、1975年、1976年)

代表歴

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  • 1969年アイスホッケー世界選手権ソビエト連邦代表
  • 1970年アイスホッケー世界選手権ソビエト連邦代表
  • 1971年アイスホッケー世界選手権ソビエト連邦代表
  • 1972年オリンピックアイスホッケーソビエト連邦代表
  • 1972年アイスホッケー世界選手権ソビエト連邦代表
  • 1972 サミット・シリーズ ソビエト連邦代表
  • 1973年アイスホッケー世界選手権ソビエト連邦代表
  • 1974年アイスホッケー世界選手権ソビエト連邦代表
  • 1974 サミット・シリーズ ソビエト連邦代表
  • 1975年アイスホッケー世界選手権ソビエト連邦代表
  • 1976年オリンピックアイスホッケーソビエト連邦代表
  • 1976年アイスホッケー世界選手権ソビエト連邦代表
  • 1977年アイスホッケー世界選手権ソビエト連邦代表
  • 1978年アイスホッケー世界選手権ソビエト連邦代表
  • 1979年アイスホッケー世界選手権ソビエト連邦代表
  • 1980年オリンピックアイスホッケーソビエト連邦代表

参考文献

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脚注

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  1. ^ a b c Valeri Kharlamov Elected To Hockey Hall of Fame in 2005”. 1972summitseries.com. 2011年8月14日閲覧。
  2. ^ a b c #16 Vladimir Petrov”. 1972summitseries.com. 2011年8月14日閲覧。
  3. ^ Summit Series 40th anniversary: Clarke’s Game 6 slash on Kharlamov was turning point for Team Canada”. モントリオール・ガゼット (2012年9月22日). 2015年2月17日閲覧。
  4. ^ Leafs, Stars Attempted to Sign Kharlamov”. 1972summitseries.com. 2011年8月14日閲覧。
  5. ^ a b VALERY KHARLAMOV: The Soviet MVP of the Decade”. 2011年8月14日閲覧。
  6. ^ トレチャク、120-121頁
  7. ^ トレチャク、119頁
  8. ^ トレチャク 122頁
  9. ^ IIHF Centennial All-Star Team”. 国際アイスホッケー連盟 (2008年5月18日). 2011年8月14日閲覧。

外部リンク

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先代
アナトリ・フィルソフ
ソビエトリーグMVP英語版
1972年、1973年
次代
ウラディスラフ・トレチャク
先代
アレクサンドル・マリツェフ
ソビエトリーグ得点王英語版
1972年
次代
ウラジーミル・ペトロフ