ヲシテ文献(ヲシテぶんけん、woshite)は、ヲシテで記述された五七調長歌体の文献である。ヲシテ文献のことが「ヲシテ」と表現されることもある。

概要 編集

現存する文書としては、前編をオオモノヌシ(大物主)のクシミカタマのミコトが後編を編集して、大神神社の初代神主のオオタタネコのミコトが記したとされる『ホツマツタヱ』、前編をアマノコヤネのミコトが記して、後編を伊勢神宮の初代の神臣(クニナツ)ヲヲカシマのミコトが編集したとされる『ミカサフミ』、さらに、アマテルカミ記紀にいう天照大神)が編纂して占いに用いたと伝えられている『フトマニ』等が発見されている。

これらの成立時期は不詳であるが、少なくとも江戸時代中期にまで遡ることが可能である。歴史学日本語学等の学界においては、戦前から清原貞雄らにより後世の偽書であるとされ[1]、近年も日本史学の分野では武光誠、日本語学の分野では飯間浩明らにより江戸時代神道家によって作成された偽書であるとされていた。だが、松本善之助により『ホツマツタヱ』の全文が発見されたのは、昭和41年(1966年)であり、その後の、吾郷清人や鳥居礼などの研究家からは古史古伝のひとつであるとされていた。しかし、漢字が渡来する以前に日本で通用していた文字と文献であって、後世の偽造とされる神代文字・古史古伝とは全く異なるとの主張もあらたに提出されている。文献全体の包括的な史料批判は、池田満によってなされている[2]

ヲシテ文献はいずれも、江戸時代中期にはすでに存在していたことがいえる。例えば、江戸時代奈良西大寺の末寺の僧侶溥泉(ふせん)によって書かれた『朝日神紀』『春日山紀』、京都天道宮神主小笠原通当による『神代巻秀真政伝』などに、ヲシテで記された『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』が引用されている。また、『和字考』『神字日文伝』などにヲシテの文字が記録されている[3][4]

原書 編集

成立当初に存在したと考えられる文書。文書内の記述によると、複数回に分けて編集され、最終的に完成したのは、人皇12代ヲシロワケ(景行天皇)の57年である。ヤマトタケ(記紀にいう日本武尊)が崩じたのに伴い、国政の混乱が予想された。ヤマトタケの遺言に基づき、ヲシロワケの勅令により次の3つの文書が編纂されたとされる。同一の世界観をもち、同一の文字ヲシテによって記述されている。成立当初は、布に染め付けられていたと記述されているが、原本は失われている。現存するのは、和装の和紙に墨書されたその写本とされるもので、少なくとも江戸時代中期に遡れる。

カクのミハタ(漢訳表記されて、天香山本記、神嶺山伝記等、「カグのフミ」ともいう)
龍谷大学所蔵の『トシウチニナスコトのアヤ』は、『カクのミハタ』に所収されていたと考えられる。最古の写本は溥泉(ふせん)伝本で、『神嶺山伝記歳中行事紋(トシウチニナスコトノアヤ)』 宝暦15年(1764年)以前の写本。
フトマニ』も、この『カクのミハタ』に所収されていたと考えられる。
『アワウタのアヤ』(富士山御師の本庄家伝来)も「カクのミハタ」に所収であったと考えられる。溥泉の引用文中にも一部の文章が記載されていた。江戸時代の中頃の写本。写本者は不明。影印版を掲載した解説書が出版されている。『よみがえる縄文時代 イサナギ・イサナミのこころ』(池田満、展望社)。
『カクのフミ』は、全巻で100アヤにものぼるという。『ホツマツタヱ』27アヤ33ページに根拠の記録がある。  
フトマニの最古の写本(野々村立蔵本)は、幕末から明治期。但しフトマニの記述の内容は、ホツマツタヱミカサフミに含まれている。また、ホツマツタヱ23アヤに、エッセンスが説かれている。
ミカサフミ(漢訳表記されて、神載山書記・三笠山紀等)
全64アヤ。9アヤ分のみ発見。五七調の長歌体になる、歴史書でもあり、哲学にも特に詳しい。
最古の写本は、和仁估安聡写本 安永8年(1779年)以前。
ホツマツタヱ(漢訳表記されて、秀真政伝紀・秀真伝・政伝記等)
全40アヤ。全巻のアヤは発見ずみ。五七調の長歌体になる歴史書であり、哲学書でもある。五七調、1万行以上にも上る、膨大な文章。
最古の写本は、和仁估安聡写本 安永4年(1775年)以前。

引用文書 編集

原書の一部が引用されている文書。

字形伝来文書 編集

ヲシテの字形のみ引用されている文書。

神代文字捏造ブームと偽書疑惑 編集

江戸時代に国学が隆盛し、漢字伝来以前の日本が独自の文字を有していたとの説が広がった。その為、「神代文字(しんだいもじ・かみよもじ)とよばれる多くの文字が創作された。

ヲシテ文献を記述している文字「ヲシテ」は、その神代文字のひとつであるとするのが学会における定説である。古筆研究者の小松茂美によると、捏造された文字であるとする根拠は次の4つである。

  1. 鎌倉時代までの古文献では、漢字の伝来以前に、わが国に文字がなかったと記されている[5]
  2. 上代特殊仮名遣におけるかな文字の区別が見られないということ。すなわち、母音の差異に基づく甲・乙両種の音の区別が消えるのは、10世紀の半ばであると考えられる。仮に神代文字が存在していたものとすれば、これら甲・乙両種の音を表す文字が当然なければならない。
  3. 神代文字は47文字または50文字で成り立つと言われているが、その数の基礎は「いろは歌」と「五十音図」に求められる。ところが「いろは歌」は9世紀はじめにつくられ、「五十音図」もその最古の例は11世紀はじめであり、年代が合わない。
  4. 字形を提示しての神代文字は、すべて江戸時代以降に成る。それも、有力なものは表音文字が音節文字で字母表としてのみ掲示され、ことばを表記した痕跡はない。

神代文字のひとつによって記述されている文書ということ等から、ヲシテ文献も偽書であるとされていたが、池田満により、『古事記』『日本書紀』の原書であると証明する新説も提示されている[6]

ヲシテ文献の成立と伝承・再発見 編集

ヲシテ文献の成立 編集

文書内の記述によると、「原書」としたものにも先行文献(「ミソギノフミ」(『ホツマツタヱ』5アヤ2ページ)「ミミノハ」(『ホツマツタヱ』16アヤ62ページ)など)があったことが記されている。これらを基に「原書」は編纂された。アマテルカミ(記紀にいう天照大神)の崩御、アマノコヤネの逝去、そして、神代12代のウガヤフキアワセズの崩御がほぼ同時期に起こり、ヤマトウチ(記紀にいう神武東遷)が予定されたため、後世の根本資料とするために編纂され、宮中に奉納された。これが「原書」の前半部である。その後、文書内の暦で約800年後、ヤマトタケ(記紀にいう日本武尊)が崩じたのに伴い、国政の混乱が予想され、ヤマトタケの遺言に基づき、人皇12代ヲシロワケ(景行天皇)の勅令により、ヲシロワケの57年に「原書」の後半部が編纂され、宮中に奉納された。その際、前半部の校正も行われたとされる。

文献の伝承 編集

その後、この文献がどのように伝承されたのかは分っていない。ある時期までは、宮中にて「正史」として把握され管理されたと想像される。しかし、漢字や漢文の流入により、いつしか忘れ去られ、物部氏の滅亡に代表される古い豪族の衰亡、藤原氏の仏教への傾倒などによって、管理もおろそかになっていったものと思われる。生洲問答によれば、道鏡の時代にはまだヲシテ文献の原書が全巻そろっていたという。吉備真備は、天香山本記(カグノフミ)・神載山書記(ミカサフミ)・秀真政伝紀(ホツマツタヱ)を所蔵していた。しかし、道鏡により文書の改ざんが指示され、文書を守る為に大加茂臣赤坂彦が自刃し、子孫は和仁估氏を名乗り文書を隠し持って近江へ蟄居し、その後秘伝の書としたという。また、桓武天皇最澄に秀真政伝紀(ホツマツタヱ)を託し、比叡山の石室に納めたともいう。しかしながら、これらを裏付ける資料は見つかっていない。

近世における伝承 編集

江戸時代中期から、検証可能な形で文書の伝承が確認されている。ひとつは、奈良の律宗の寺院で西大寺の末寺である寂照寺の住職であった僧溥泉(ふせん)の下である。溥泉は、先師よりホツマツタヱミカサフミおよびカクのフミの写本を見せられ、朝日神紀春日山紀・神明帰仏編を記し、その中でそれらを引用した。この内、春日山紀は安永8年(1779年)に出版された。溥泉の蔵書は、現在龍谷大学の図書館に所蔵されている。しかしながら、ヲシテ文献の写本はカクのフミの1アヤ分のみしか発見されていない。

もうひとつは、和仁估(わにこ)氏の末裔であると称する近江の和仁估安聡のところである。和仁估は祖父より写本を相伝し、ヲシテ文献について研究を重ねた。そして、写本の校正と漢訳を試みた。その際、比叡山の石室に納められた写本をも参照したという。また、写本を伏見宮家にも奉納したという。和仁估によるホツマツタヱとミカサフミの写本(いずれも漢訳付)は発見ずみである。ただし、伏見宮家にあるという写本、あるいは比叡山の写本は発見されていない。

確認されている和仁估によるホツマツタヱの写本2種の内、漢訳のない写本は天保年間に京都の天道宮の神主を務めていた小笠原通当に貸し出された。小笠原は溥泉の春日山紀を読んで読解の方法を知り、神代巻秀真政伝をまとめて天保14年(1843年)に刊行した。その後、この写本は、子孫の小笠原長弘に継承され、長弘によって返還されたがその後原本は失われた。長弘によって写された写本および、その甥の小笠原長武によって写された写本が現存している。

長弘は明治7年(1874年)正木昇之助と共にホツマツタヱの一部を抜粋し、宮中に奉呈しようと試みた。この写本は、現在「奉呈本」とよばれている。その後、長武によって完写本が内閣文庫に収められた。長武は、ホツマツタヱと古事記日本書紀の同一内容の箇所を比較して研究することをはじめて試みている。松本善之助や池田満の現代研究につながる端緒を小笠原長武が開いたと言える。

これらの動きはあったが、ヲシテ文献は世間に知られることもなく埋もれていた。

写本再発見の経緯 編集

写本の再発見は、「現代用語の基礎知識」の初代編集長をしていた松本善之助が「本当の日本とは何なのだろうか?」との疑問に取り付かれたことから始まった。昭和41年(1966年)8月に東京・神田の古本屋でみつけたのが、後に「奉呈本」(現在、池田満所蔵)とよばれる写本だった。

「奉呈本」には3アヤしか収められていなかったため、松本は全巻の捜索に取り組み、四国の宇和島の旧家小笠原家で、ホツマツタヱ全巻の写本を2つ発見(内1写本は「覆刻版ホツマツタヘ」として印影版が出版)、さらに、国立公文書館の内閣文庫にも全巻の写本が収蔵されているのを発見した。平成4年(1992年)には、滋賀県高島市安曇川町日吉神社からホツマツタヱ全巻の親写本が発見された。この写本は、『和仁估安聡本ホツマツタヱ』として印影版が出版された。これらの再発見の後、近代的な研究がはじめられるに至っている。再発見の経緯は『ホツマツタヱ発見物語』(松本善之助:著、池田満:編、展望社)によって公表されている。

写本が近世まで秘匿された理由の推測 編集

真書であるという立場の論者の間では、一般に『日本書紀』編纂者の意図は、中国()に対する外交政策を有利にするために、日本にも皇帝に匹敵する天皇がおり、正史を漢字で記すだけの文明があると証明する必要があると考えて、漢字で記された歴史書を作ったという見方が定着している。

中国の皇帝は、天帝思想であり、天から使命を得て帝位についている。ヲシテ文献の研究家である池田満[3]、ヲシテ文献の中で当時カミヨ(上代/神代)と呼ばれた歴史について、記紀の編纂にあたり、地上でのできごとではなく天上でのできごとであることにし、日本の天皇も皇帝と同じく天帝であると潤色したのではないか、と推定している。ヲシテ文献のひとつ「ホツマツタヱ」のカミヨ(上代/神代)の記述の内、アマカミ(古代の天皇の名称)の記述以外、臣下であるトミ・オミ(臣)の記述は全く神代の時代の記紀に見られないからである。真書説の立場からは、朝廷が、当時の国字であったヲシテを捨て、漢字を国字に、漢文を公文書の公用語として採用した。そして記紀が成立し、日本書紀が正史とされ、漢字・漢文により表現する時代が長くなると、ヲシテを振り返るものもなくなり、いつしか秘伝の書とされるに至ったのではないかと推測されている。

脚注 編集

  1. ^ 引用?
  2. ^ 『定本ホツマツタヱ』(池田満、展望社)、『ホツマツタヱを読み解く』(池田満、展望社)、『ホツマ辞典』(池田満、展望社)
  3. ^ a b 池田満『ホツマツタヱを読み解く』(展望社、2001年)ISBN 9784885460838
  4. ^ 池田満監修、青木純雄平岡憲人著『よみがえる日本語』明治書院(国語文法の解明に拠る)ISBN 9784625634079
  5. ^ 斎部広成の『古語拾遺』(808年)において「蓋聞 上古之世 未有文字 貴賤老少 口口相傳 前言往行 存而不忘」と記されており、漢字渡来以前の日本には文字が存在しなかったことが述べられている。
  6. ^ 『ホツマツタヱを読み解く』(池田満、展望社)

関連文献 編集

原文テキスト 編集

  • 『和仁估安聡本 ホツマツタヱ 秀真政傳記』(和仁估安聰=写) 新人物往来社 1993
  • 『覆刻版 ホツマツタヘ』(小笠原長弘=写) ホツマ・ツタヘ研究会 1971
  • 『記紀原書ヲシテ』(上・下) 展望社 2004 ※ヲシテ表記・フリガナなし・校異の脚注付き・写植活字組み版
  • 『記紀原書ヲシテ 増補版』(上・下) 展望社 2021 ※ヲシテ表記・フリガナなし・校異の脚注付き・写植活字組み版
  • 『定本 ホツマツタヱ -日本書紀・古事記との対比-』(池田 満=校訂・編集)展望社 2002/03 ISBN 4885460867

ヲシテ文献をベースとした神道系哲学書 編集

  • 鳥居礼『ホツマツタヱ入門』 東興書院 1989/3
  • 小笠原通当(現代語訳、註解 鳥居礼)『神代巻秀真政伝』東興書院 1991/1
  • 鳥居礼『新版 言霊ホツマ』 たま出版 1998/5
  • 鳥居礼『改訂新版 神代の風儀』 新泉社 2003/2
  • 鳥居礼『ホツマの宇宙観』 新泉社 2004/01

ヲシテ文献の現代語訳を試行した文献 編集

  • 大物主家日本建国史 改訂増補 『秀真伝』(訳・吾郷清彦) 昭和54年12月 1979/12
  • 日本建国史 全訳ホツマツタヱ(訳・吾郷清彦) 昭和55年2月11日 1980/2(株)新國民社
  • 『完訳 秀真伝 上・下』(鳥居礼=校訂・訳) 昭和63年8月10日 1988/2 八幡書店
  • 「ほつまつたゑ 上・下」(編集者:鏑邦男)渓声社 平成6年2月 1994/2 ISBN 4795275211 
  • 「甦る古代 日本の誕生 ホツマツタヱ―大和言葉で歌う建国叙事詩」(編著者:千葉 富三) 文芸社 平成21年7月 2009/7 ISBN 4286066371

雑誌 編集

  • 月刊誌「ほつま」 初号(昭和49年2月) 〜 最終号・249号(平成6年9月)(日本古代文字文献研究会:松本善之介)
  • 検証 ホツマツタヱ 初号(平成14年6月) 〜 45号(平成21年10月)(サブタイトル)真説・日本古代史 ホツマ出版会(小冊子)

ヲシテ文献を偽書とする立場で書かれた文献 編集

  • 佐治芳彦『謎の神代文字―消された超古代の日本』 徳間書店 1997/11
  • 藤原明『日本の偽書』 文藝春秋 2003/05 ISBN 4166603795
  • 小松茂美『かな』岩波新書679

関連項目 編集