ヴェルサイユ条約 (1757年)

ヴェルサイユ条約(ヴェルサイユじょうやく、フランス語: Traité de Versailles, ドイツ語: Vertrag von Versailles)、または第二次ヴェルサイユ条約(だいにじヴェルサイユじょうやく、フランス語: Second traité de Versailles, ドイツ語: Zweite Vertrag von Versailles)は、七年戦争中の1757年5月1日ヴェルサイユ宮殿で締結された、オーストリアフランス王国外交協定。

ヴェルサイユ条約(1757年)
通称・略称 第二次ヴェルサイユ条約
署名 1757年5月1日
署名場所 ヴェルサイユ宮殿
締約国 オーストリアフランス王国
主な内容 外交協定
関連条約 ヴェルサイユ条約 (1756年)
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条約は前年にフランス・オーストリア同盟英語版を成立させたヴェルサイユ条約を拡張し、そのために「第二次」と呼ばれる。

内容 編集

第二次条約では両国の同盟が強化され、フランスは終戦のときにオーストリア領ネーデルラントを得る代わりにオーストリアがプロイセン王国からシュレージエンを奪回することを援助した[1]。フランスからオーストリアへの財政援助も継続した。イギリスの危惧が現実になった形となった。

条約が締結されると、フランス軍はオーストリア領ネーデルラントのオーステンデニューポール港などに進駐し、オーストリアの駐留軍は東へ移動してプロイセンを攻撃することができた[2]。イギリスは長らくフランスが低地諸国に侵入するのを阻止してきたが、条約によりこの40年間維持された障壁はあっさり破られた。フランスはネーデルラントを獲得した後、スペイン・ブルボン家パルマ公フィリッポ1世をその君主に就かそうとした。

条約はまた、戦後のロシアスウェーデンザクセンによるプロイセン分割を認めた。

その後 編集

ロシア、スウェーデン、そしてザクセンの援助にもかかわらず、フランスとオーストリアはプロイセンに素早く勝利できず、目論見が外れた。さらに、フランスはプロイセンのほかにイギリスとも戦わなければならなかったため兵力を分散せざるを得ず、またこの二正面作戦はフランスの財政危機を引き起こした[3]。そのため、条約は翌年に三たび締結されたヴェルサイユ条約英語版でほとんど廃止された。

関連項目 編集

脚注 編集

  1. ^ Dull p.93-94
  2. ^ Simms p.437
  3. ^ Dull p.133-34

参考文献 編集

  • Anderson, Fred. Crucible of War: The Seven Years' War and the Fate of Empire in British North America, 1754–1766. Faber and Faber, 2000.
  • Dull, Jonathon R. The French Navy in the Seven Years War. University of Nebraska Press, 2005.
  • Simms, Brendan. Three Victories and a Defeat: The Rise and Fall of the First British Empire. Penguin Books, 2008.