一色直朝

戦国時代から安土桃山時代の武将、歌人、画家

一色 直朝(いっしき なおとも)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将歌人画家。幸手一色氏の当主[1]古河公方後北条氏の家臣。宮内大輔従五位下[2]足利義嗣の玄孫。

 
一色 直朝
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 慶長2年11月14日1597年12月22日)?
改名 直朝→蘆雪/月庵(法名)
官位 宮内大輔従五位下
幕府 室町幕府
主君 足利晴氏義氏北条氏照
氏族 一色氏(幸手一色家)
父母 父:一色直頼、母:成田親泰
兄弟 直朝、伊勢満丸
簗田高助
義直氏頼輝季渡辺政義
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生涯

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父は一色直頼、母は成田親泰の娘[1]

下総国葛飾郡田宮(幸手)庄の一色城に拠を構えた幸手一色氏の一族で、直朝も同氏の嫡流が名乗った「八郎」、後に「宮内大輔」を称した。

古河公方足利晴氏奏者衆として活躍し、天文14年(1545年)に関東に下った聖護院道増が晴氏と会見した際に、古河公方側の窓口になった一色八郎が直朝だとされる。続く義氏にも奏者衆として仕え、反後北条氏勢力によって義氏が古河城を追われた後もこれに従い、永禄12年(1569年)に義氏が古河に帰還するまで近侍する。その後出家し、月庵と号した。

ところが、後北条氏の勢力が古河公方に浸透すると、その勢力は衰退していく。義氏の死後は後北条氏の家臣に編入され、北条氏照の指揮下に置かれる。その一方で、氏照の下で足利氏姫を当主として存続した古河公方家では、庶流の一色氏久が重用されて、嫡流の立場を喪失することになる。小田原征伐ののち、上総国大淵寺に隠棲した。

慶長2年(1597年)11月14日、死去[2]。法名は月庵[2]

その子・義直徳川家康に仕えた。

歌人画家としても優れており、歌人で公家の三条西実枝と交流し、家集に『桂林集』がある。画は『伝貞巌和尚像』(久喜市甘棠院蔵、紙本著色、重要文化財)や『白鷹図』(栃木県立美術館蔵 絹本著色)など、7点の作品が確認されている[3]。また著作として、説話集『月庵酔醒記』がある。なお、御成敗式目の注釈本『蘆雪本貞永式目』の著者を直朝に充てる説もあるが、異論もある。

脚注

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  1. ^ a b 鷲宮町史 1986, p. 608.
  2. ^ a b c 寛政譜 1922, p. 491.
  3. ^ 相澤正彦橋本慎司 『関東水墨画 型とイメージの系譜』 国書刊行会、2007年 ISBN 978-4-3360-4347-4

参考文献

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