三井高信
三井 高信(みつい たかのぶ、1871年11月23日(明治4年10月11日) - 1922年(大正11年)8月17日)は、日本の実業家。一本松町家(三井家連家)の初代当主[1][2]。
カネボウ創業者兼頭取、王子製紙会長、東神倉庫社長などを務めた。三井呉服店監査役、三井鉱山監査役、三井物産監査役、三井合名監査役等を歴任した[1][2]。
経歴
編集1871年、三井伊皿子家の第6代当主の三井高生 [注釈 1]の二男として京都府にて出生[1][2]。三越正次の養子となったという説もある[5]。
1872年 三井大元方(三井家全事業の統括機関)から不振事業であった越後屋を分離するにあたり、名目上の三越家の名義で経営するため、三井得右衛門を三越得右衛門と改姓。大隈重信、渋沢栄一、井上馨らから呉服店の分離を迫られ、三越家が設立された[6][7][8]。
1875年 糸店および売込店を三越から切り離し、大元方直轄の国産方(三井物産の前身)に移管。
1886年 11月、内務省勧業寮の屑糸紡績所(新町紡績所)の三越呉服店への払下げを受けるに伴い[9]、東京綿商社(カネボウ前身)を設立し、頭取・社長に就任した[1][2]。
1887年 5月12日、農商務省所属の群馬県新町紡績所の払下げを受ける。
1888年 1月8日、三越呉服店の本店西側に洋館を新築し「三越洋服店」を開業(のち植村伝助に譲渡)。
1893年 7月、三越家の家督相続と同時に復姓し、三井得右衛門を名乗って三越呉服店を運営した[10][8]。
1904年 三越呉服店を株式会社として設立登記。新聞紙上に「三越呉服店が三井呉服店の営業を譲り受けた」ことを広告し、「デパートメントストア宣言」記載の三井・三越連名挨拶状を全国の顧客・取引先などに発送し、株式会社三越呉服店として営業を開始。
親族
編集脚注
編集- 注釈
- 出典
- ^ a b c d 三井 高信(読み)ミツイ タカノブ20世紀日本人名事典の解説
- ^ a b c d 「三井高信(読み)みつい たかのぶ」デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
- ^ 官報
- ^ 官報
- ^ 人事興信録(第4版)。1915年1月(大正4年)
- ^ 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)-越後屋
- ^ 「社名を決めたら改姓もしちゃった」,田中ひろみ『社名の不思議な由来』
- ^ a b 生島淳「百貨店創成期の改革者 : 日比翁助と2代小菅丹治」『政大学イノベーション・マネジメント研究センター ワーキングペーパーシリーズ』第134巻、法政大学イノベーション・マネジメント研究センター、2012年、1-21頁、hdl:10114/11336、NCID BB14069505。
- ^ 清水.中島.山口(1989).
- ^ 安岡重明 1969.
- ^ : 1896-1956』(1957.05)渋沢社史データベース
- ^ 「王子製紙(株)『王子製紙社史 : 1873-2000. 本編』(2001.08)」渋沢社史データベース
- ^ 「(株)三井銀行『三井銀行五十年史』(1926.09)」渋沢社史データベース
- ^ 「三井倉庫(株)『三井倉庫五十年史』(1961.03)」渋沢社史データベース
- ^ 「三井得右衞門 (男性)」日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース(名古屋大学)
- ^ 三井得右衞門 (初版 明治36(1903)年4月 の情報) - 人事興信録データベース
参考文献
編集- 清水慶一, 中島久男, 山口義弘「関東地方内陸部の産業施設についての近代建築技術史を軸とする調査研究:内務省勧業寮屑糸紡績所(現カネボウ食品工業新町工場)の建築について」『Bulletin of the National Science Museum. Series EPhysical Sciences & Engineering』第12号、国立科学博物館、1989年、29-46頁、ISSN 03878511、NDLJP:11640979。
- 安岡重明「明治前期における三越家の相続」『同志社商学』第21巻第2号、同志社大学商学会、1969年9月、1-14頁、doi:10.14988/pa.2017.0000006046、ISSN 0387-2858。
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