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三遊亭遊三 (初代)

初代三遊亭遊三(さんゆうてい ゆうざ、1839年天保10年) - 1914年大正3年)7月8日)は主に明治期に活躍した落語家。本名:小島長重。

初代 三遊亭 遊三さんゆうてい ゆうざ
本名 小島 長重
別名 「よかちょろの遊三」
生年月日 1839年
没年月日 1914年7月8日
出身地 日本の旗 日本・江戸
師匠 2代目五明楼玉輔
6代目司馬龍生
初代三遊亭圓遊
弟子 初代三遊亭三福
三遊亭小遊三(後の6代目橘家圓太郎
三遊亭三玉(6代目圓太郎の実弟)
名跡 玉秀
雀家翫之助
登龍亭?鱗好
初代三遊亭遊三
活動期間 ? - 1914年
活動内容 江戸落語・滑稽噺
家族 2代目三遊亭遊三(妻の甥)
十朱久雄(孫)
十朱幸代(曾孫)
所属 三遊派
主な作品
よかちょろ
備考
墓所は文京区関口二丁目の大泉寺

経歴編集

元々徳川家に仕えた御家人の生まれで、正しくは小島弥三兵衛長重と言う。小石川小日向屋敷に住み、初代三遊亭圓遊(本名:竹内金太郎)とは手習い仲間であった、その頃の御家人の例に漏れず、武士の階級でありながら芸人仲間に加わり好きな芸事に耽溺していた。幕末頃病昂じて2代目五明楼玉輔門人となり玉秀と名乗って寄席に出るようになる。周囲の猛反対や組頭の叱責も意に介さず雀家翫之助と改名して寄席に出演を続けていた。

1868年慶応4年)の上野戦争には彰義隊の一員として参加した。倒幕後の維新後は司法省に入り裁判官の書記を経て判事補となるなど完全に寄席から離れる。だが、函館に勤務中、関係を持った被告の女性に有利な判決をするという不祥事を引き起こし官を辞す。それがきっかけで居られなくなり女性をつれて東京へ戻る。

帰京後、口入屋などをしていたが、旧友初代三遊亭圓遊を頼って寄席に復帰。6代目司馬龍生門で登龍亭鱗好となるが師が女性問題で駆落ちしてしまい、止む無く三遊亭圓朝の進めで圓遊門人となり三遊亭遊三となる。「三遊亭遊三」は回文形式の洒落た名前で、他の落語家には三笑亭笑三笑福亭福笑蝶花楼花蝶歌舞伎では助高屋高助がこれにあたる。

御家人生まれだけに「素人汁粉」など武士の演出が優れていたという。十八番は「よかちょろ」で「よかちょろの遊三」とまで呼ばれた。他に「転宅」「厩火事」「お見立て」「権助提灯」などの滑稽噺を得意とした。5代目古今亭志ん生が若い頃、遊三の「火焔太鼓」を聞いて、後に自身の十八番とした逸話は有名である。

晩年に義理の甥(妻の甥)にあたる2代目三遊亭遊三に譲り隠居、門人には夭折した初代三遊亭三福小遊三(後の6代目橘家圓太郎)、三玉(6代目圓太郎の実弟)、昭和期に活躍した3代目三遊亭圓遊などがいる。なお、俳優十朱久雄は孫、女優の十朱幸代曾孫である。墓所は文京区関口二丁目の大泉寺。

関連項目編集