上ノ塚古墳
上ノ塚古墳(じょうのづかこふん)は、福井県三方上中郡若狭町脇袋にある古墳。形状は前方後円墳。上中古墳群(うち脇袋古墳群)を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている。
上ノ塚古墳 | |
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墳丘(右に前方部、左奥に後円部) | |
所属 | 上中古墳群(うち脇袋古墳群) |
所在地 | 福井県三方上中郡若狭町脇袋 |
位置 | 北緯35度28分4.49秒 東経135度52分28.36秒 / 北緯35.4679139度 東経135.8745444度座標: 北緯35度28分4.49秒 東経135度52分28.36秒 / 北緯35.4679139度 東経135.8745444度 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 | 墳丘長100m |
埋葬施設 | 不明 |
出土品 | 埴輪片 |
築造時期 | 5世紀初頭 |
史跡 | 国の史跡「上ノ塚古墳」 |
特記事項 | 若狭地方第1位の規模 |
地図 |
概要
編集古墳群 | 古墳名 | 形状 | 墳丘長 | 築造時期 |
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脇袋 | 上ノ塚古墳 | 前方後円墳 | 100m | 5c初 |
城山古墳 | 前方後円墳 | 63m | 5c中 | |
脇袋 | 西塚古墳 | 前方後円墳 | 74m | 5c後 |
中塚古墳 | 前方後円墳 | 72m | 5c末 | |
天徳寺 | 十善の森古墳 | 前方後円墳 | 68m | 6c初 |
日笠 | 上船塚古墳 | 前方後円墳 | 70m | 6c前 |
下船塚古墳 | 前方後円墳 | 85m | 6c中 |
福井県南西部、若狭地方中央部にある膳部山(ぜんぶやま)の西側山麓に築造された前方後円墳である。膳部山山麓は、本古墳含む7基(現存確認5基)からなる脇袋古墳群が営造された地域であるが、特に若狭地方の広域首長墓(若狭の王墓)とされる古墳3基(上ノ塚古墳・西塚古墳・中塚古墳)を含み、「王家の谷」に擬される地域になる[2]。本古墳は脇袋古墳群の中央部に位置し[3]、これまでに1992年(平成4年)に発掘調査が実施されている[4]。
墳形は前方後円形で、前方部を北方向に向ける(西塚古墳・中塚古墳と逆方向)[5]。墳丘は3段築成[5][4]。墳丘長は約100メートルを測り、脇袋古墳群ひいては若狭地方で最大規模になる[4]。墳丘外表では葺石・埴輪(円筒埴輪・朝顔形埴輪・家形埴輪)のほか、樹立した状態の木製埴輪が検出されている[4]。墳丘周囲には盾形の周濠が巡らされており、周濠外堤の内側斜面は葺石で覆われ、周濠内からは槍形木製品・板材が検出されている[4]。
築造時期は、古墳時代中期の5世紀初頭[2](または4世紀末-5世紀初頭[4])頃と推定される。若狭の首長墓としては最初の築造で、城山古墳に先行する時期に位置づけられる[1][2]。被葬者は明らかでないが、後背の「膳部山」の名にも見えるように、一帯の脇袋古墳群ひいては上中古墳群は若狭国造の膳臣(かしわでのおみ、膳氏)一族の首長墓群と考えられており、本古墳もその1つと想定される[1][2]。
遺跡歴
編集墳丘
編集墳丘の規模は次の通り[4]。
- 墳丘長:約100メートル
- 後円部 直径:約64メートル
- 前方部 長さ:約36メートル
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後円部墳頂
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後円部(前方部から望む)
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前方部(後円部から望む)
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円筒埴輪片
花園大学歴史博物館企画展示時に撮影。
文化財
編集国の史跡
編集- 上ノ塚古墳 - 1935年(昭和10年)12月24日指定[6]。
関連施設
編集- 若狭町歴史文化館(若狭町市場) - 上ノ塚古墳の出土埴輪等を保管・展示。
脚注
編集参考文献
編集- 史跡説明板
- 『日本歴史地名大系 18 福井県の地名』平凡社、1981年。ISBN 4582490182。
- 「上中古墳群」、「上之塚古墳」。
- 山口充「上ノ塚古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607。
- 宮崎認「上ノ塚古墳」『続 日本古墳大辞典』東京堂出版、2002年。ISBN 4490105991。
- 「上ノ塚古墳」『国指定史跡ガイド』講談社。 - リンクは朝日新聞社「コトバンク」。
関連項目
編集外部リンク
編集- 上ノ塚古墳 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- 上ノ塚古墳 - 福井県ホームページ「福井の文化財」
- 上ノ塚古墳 - 小浜市・若狭町日本遺産活用推進協議会「日本遺産 御食国若狭と鯖街道」
- “Google ストリートビュー 上ノ塚古墳”. Google ストリートビュー (2016年7月). 2016年12月3日閲覧。