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上原 元将(うえはら もとすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上原氏は元々備後国の国人で、後に毛利氏に属する。毛利元就の娘婿。

 
上原元将
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 天正12年(1584年
別名 上原元祐
官位 右衛門大夫
主君 毛利元就隆元輝元羽柴秀吉
氏族 藤原北家秀郷流和智氏庶流上原氏
父母 父:上原豊将
正室:毛利元就の三女
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生涯編集

毛利元就の娘婿編集

備後国世羅郡甲山[1]今高野山城を本拠とした国人である上原豊将の嫡男として生まれる。

父の豊将が毛利元就に属して天文22年(1553年)の備後経略に功を立てたことによって、元将は元就の三女を娶ることとなり、以後毛利氏の一族として重きをなした。

天正7年(1579年)、宇喜多直家が毛利氏を離反して織田氏に味方し、毛利方の備中忍山城を攻撃し占領した。この宇喜多氏の動きに対し、毛利輝元は自ら吉田郡山城を出陣し、同年12月24日吉川元春小早川隆景と共に忍山城を総攻撃して翌12月25日夜に陥落させた。これによって宇喜多氏の勢力は備中国から駆逐され、輝元は次に美作国へと進軍する。備中国では、備前国との国境防備の強化のために備中国賀陽郡の各城の防備が固められ、元将は日幡城に入城した[2]

毛利氏離反編集

天正10年(1582年)4月に織田氏重臣の羽柴秀吉が備中攻撃を開始すると、元将が守る日幡城付近の宮路山城冠山城亀石城が相次いで織田氏に服属。秀吉は続けて5月7日清水宗治の守る備中高松城を包囲した。この動きに対し、吉川元春と小早川隆景は高松城を救援するために高松城の西南十数町にある岩崎山まで軍を進めたが、高松城の救援は容易ではなかった。高松城への救援が進まない状況を見た元将は毛利氏の前途を悲観し、秀吉の調略に応じて織田氏へ降ることを決めた。

当時日幡城の二の丸を守っていた日幡景親は、元将の毛利氏離反の意志を知ると元将を強く諌めたが、元将は諫言を聞き入れず六郎兵衛を討ち果たして織田方へ寝返った。元将は宇喜多軍を日幡城に招き入れ、秀吉は木村重茲を検使として日幡城へ派遣した。元将の離反を知った国司元武は、上原氏と所領が隣接し親密な間柄であり当時岩山城の守備していた湯浅将宗に連絡。将宗は岩崎山に在陣する吉川元春と小早川隆景に急使を派遣して元将の離反を報告し、自らの進退についての指示を仰いだ。元春と隆景は直ちに楢崎元兼に備中・備後の兵を率いさせて日幡城を攻撃。この攻撃に対して秀吉は自重して元将を救援しなかったため、直ぐに日幡城は陥落し、元将は城を脱して秀吉の下へ逃亡した。さらに楢崎元兼は元将の妻(元就の三女)を奪還して吉田郡山城へと送り届けた。

元将の離反は直ちに鎮圧されたが、元就の娘婿にあたる元将の毛利氏離反は毛利氏に大きな動揺を与え、織田氏との戦いに従軍中の三沢為虎久代修理亮らの離反の風説が生じている。

秀吉の下へ逃れた元将は、後に秀吉から1000石を与えられ、天正12年(1584年)に客死した。

脚注編集

  1. ^ 現在の広島県世羅郡世羅町甲山。
  2. ^ 同時期に、加茂城本丸に桂広繁、西の丸に上山元忠、東の丸に備中石川氏家臣の生石治家松島城に小早川隆景の家臣である梨羽景連庭瀬城に隆景家臣の桂景信井上豊後守がそれぞれ守りについた。

参考文献編集