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三沢 為虎(みざわ ためとら)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将

 
三沢為虎
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時代 戦国時代 - 江戸時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 少輔八郎
戒名 覚天寺殿雲叟覚天大居士
墓所 山口県小野田市大休1867 覚天寺
官位 摂津守
主君 毛利元就輝元秀元
長府藩家老職
氏族 源姓三沢氏
父母 父:三沢為清、母:尼子晴久の娘
正室:宍戸元秀の娘
為基為朝為幸
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南信濃国人飯島氏の末裔、もしくは木曾義仲の末裔を称する。出雲国仁多郡三沢城を根拠とする三沢氏の当主。三沢氏は尼子氏傘下であったが、元々独立性の強い国人領主であり、父の三沢為清の時に尼子氏を見限り、毛利氏に臣従した。

生涯編集

毛利氏への臣従と尼子再興軍との戦い編集

生年不詳だが、父の生年から1550~1560年代の生まれと推測される。為虎幼少の頃、もしくは誕生前に父の為清は安芸国戦国大名毛利氏に臣従し、その家臣となった。永禄12年(1569年)、毛利氏の北九州への侵攻に従い、吉川元春傘下として出陣。筑前国立花山城の戦いに加わった。

同年、毛利氏の主力が九州に集中している隙を狙って尼子再興軍の尼子勝久山中幸盛が出雲国に侵攻してくると、父とともに尼子再興軍を迎撃した。永禄13年(1570年布部山の戦いでも戦功を挙げ、尼子再興軍を撃破した。引き続き、吉川元春指揮下で山陰方面を転戦する。

また、天正元年(1573年)に織田信長に追放された足利義昭に住まいを構える(通称:鞆幕府)と、その御供衆となった。天正2年(1574年)、父の隠居に伴い家督を相続。そして天正6年(1578年)の上月城の戦いにも従軍し、尼子氏の最期を見届けた。

そして天下統一を目論む織田信長とその配下、羽柴秀吉との戦いにも参加し、天正10年(1582年)の備中高松城の戦いにも出陣した。羽柴秀吉との戦いでは、三沢為虎が秀吉に通じたとの噂があり、その噂を否定するために吉川元長誓紙を提出している。

毛利家臣となり、関ヶ原後に長府藩士となる編集

豊臣秀吉の天下となると、毛利氏は積極的に領内の再編成を進めた。出雲国内も例に漏れず、多くの国人衆が所領を転封され、家臣団の再編成と在地性脱却が図られた。三沢氏と同じ出雲国の有力国人であった三刀屋久扶徳川家康への面会を理由に、所領を没収されて追放された。三沢為虎も天正17年(1589年)に毛利輝元に安芸国へ呼び出され、そのまま監禁状態に置かれた。三沢は没収されたものの、その有能さと毛利一門宍戸元続の娘を妻としていたこともあり、長門国厚狭郡に1万石を与えられ、そこへと移住した。

その後も毛利氏家臣として、引き続き輝元に仕え、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐にも従軍。伊豆国下田城攻めでは同僚の吉見広頼益田元祥山内広通らと武功を挙げ、下田城を開城させた。また、文禄・慶長の役でも出陣して、朝鮮へと侵攻した。慶長2年(1597年)から翌年にかけての蔚山城の戦いでも、戦功を挙げた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、安濃津城の戦い大津城の戦い、関ヶ原本戦にも出陣せず、長門国の要衝であった赤間関の守備についた。結局、毛利氏は戦いに敗れ、中国地方120万石の大大名から防長2ヶ国36万石に減封された。三沢為虎は、新たに立藩した長府藩藩主毛利秀元の家老となり2,700石の所領を知行された。

没年不詳。墓所は山口県小野田市大休1867 覚天寺。戒名は覚天寺殿雲叟覚天大居士。

子孫編集

為虎の子、三沢為基は後に長府藩を出奔し、陸奥仙台藩伊達氏に仕え、その孫の三沢初子伊達綱宗の妻となって仙台藩主となる伊達綱村宇和島藩主となる伊達宗贇を生む。三沢氏は後に前沢三沢家となり、一門として遇された。岩谷堂伊達家に養子入りした伊達村望は為虎の玄孫にあたる。また、出羽亀田藩岩城氏に養子に入った岩城隆恭も伊達村望の子である。その直系子孫には近江宮川藩主から逓信大臣となった堀田正養がいる。

長府藩士三沢家はその後も長府藩の家老職を歴任し、藩主を補佐した。幕末に三沢東市之助が出て、福原和勝らと長府藩報国隊を率いて北越戦争に従軍、越後長岡藩河井継之助とも戦い、陸奥会津藩本拠の若松城の攻略にも戦功を挙げた。

参考文献編集

関連項目編集