上原城(うえはらじょう)は、信濃国諏訪郡長野県茅野市茅野上原)にあった中世日本の城山城)。長野県指定史跡。上原城の支城として桑原城がある。

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上原城
長野県
上原城居館跡の石碑
上原城居館跡の石碑
城郭構造 山城
天守構造 不明
築城主 諏訪氏
主な改修者 板垣信方
指定文化財 なし
位置 北緯36度00分33.0秒 東経138度08分54.9秒 / 北緯36.009167度 東経138.148583度 / 36.009167; 138.148583 (上原城)座標: 北緯36度00分33.0秒 東経138度08分54.9秒 / 北緯36.009167度 東経138.148583度 / 36.009167; 138.148583 (上原城)
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概要 編集

永明寺山[1]の西側にある金毘羅山(標高978m)の山頂と中腹の居館からなる諏訪総領家の本拠であった根小屋式山城である[2]

築城年代は定かではないが、室町時代文正元年(1466年)頃、諏訪信満[3]が中腹に居館を建て、5代70余年にわたり諏訪地方を統治したと考えられている。『守矢頼実書留』によれば、上原町には堀廻りが存在し、信濃国衆の小規模城下町である「宿城」(町宿)であったと考えられている。上原城下町には諏訪大社上社とその別当寺である神宮寺の門前町を包括していた、諏訪の政治経済の中心地であった[4]

天文11年(1542年)には、甲斐国武田晴信(信玄)が信濃侵攻高遠頼継とともに領主・諏訪頼重を滅ぼし、諏訪郡武田氏の領国となる。

武田氏の諏訪支配では譜代家老板垣信方が諏訪郡代として赴任するなど、城代をおいて諏訪を治めた。 板垣信方は武田氏の諏訪・佐久郡侵攻において先発隊を指揮しており、上原城配置以前から両郡における所領宛行などを行っている。信方は正式には諏訪郡司(郡代)の立場であったが、天文17年(1548年)2月の信濃村上氏との上田原の戦いにおいて戦死する。信方の死後、上原城には弟の室住玄蕃充虎登が派遣されるが、同年8月には長坂虎房(光堅)が配置される。天文18年(1549年)には上原城に代わり高島城(茶臼山城、諏訪市高島)が築城され、虎房は高島城へ移り、諏訪郡の政治的拠点は高島城に移転された。

天正10年(1582年)3月の織田徳川連合軍による武田領侵攻(甲州征伐)により武田氏は滅亡し、廃城となった。上原城下町は政庁移転後も存続しているが、江戸時代には諏訪高島城が築城され新城下町が整備されると、上原城の町宿は移転され消滅する。

現在は主郭や土塁・二の郭・三の郭・曲輪・空物見石などの遺構が残されている。

歴代城主 編集

城主 編集

諏訪氏時代

郡司 編集

武田氏時代は郡司(郡代)を置いた。

交通アクセス 編集

 
頼岳寺脇Y字坂

脚注 編集

  1. ^ 諏訪市博物館・なんでも諏訪百科 永明寺山参照
  2. ^ 永明寺山には同時期、南に齢松山城、南東には鬼場城という諏訪氏の支族、矢ヶ崎家の山城があった。(茅野市史編纂委員会著〈細田貴助ほか〉『茅野市史』中巻 中世・近世 1987年)参照
  3. ^ 諏訪氏#鎌倉・南北朝時代参照
  4. ^ 上原城のそばには当時鎌倉五山にならって上原五山と呼ばれた五ヶ寺があった。永明寺(焼失)、極楽寺(唯一現在も存在している)・金剛寺(廃寺)・法明寺・光明寺(この二ヶ寺はのちに合併して放光寺となり上諏訪に移る)、上原八幡神社もこの時代に建立された。
  5. ^ 諏訪氏#室町時代参照

参考文献 編集

  • 丸島和洋「戦国大名武田氏の領域支配と「郡司」-信濃国諏訪郡支配を事例として-」『史学』75巻2・3合併号、2007年
  • 南原公平 『信州の城と古戦場』 しなのき書房 2009年

関連文献 編集

  • 宮坂武男『宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭』「図説日本の城郭シリーズ第3巻」戎光祥出版ISBN 978-4864032148
  • 原田泰治『信州の史跡百選 (長野県観光みどころシリーズ)』長野県観光連盟 1993年ISBN 978-4474101845

関連項目 編集

外部リンク 編集