中山 養福(なかやま おさよし、文化5年〈1808年〉 - 嘉永2年〈1849年11月)は江戸時代絵師。名は忠次、鍮次、忠次郎。別号に竹窓、求古斉。

徳島藩の江戸八丁堀屋敷留守居役、中山百助の二男として江戸で生まれる。狩野晴川院養信に学び、徳島藩の絵師となる。 1829年(文政年)の藩の分限帳に「五人十石中山鋳冶」とある。

花鳥画が得意で、天保13年(1842年)筆の「真那鶴図」は徳島市の文化財に指定されている。明治時代の狩野派の大家・橋本雅邦と同門であったが、雅邦は「養福がもし生きていれば自分より上になったであろう」と語っており、[要出典]早逝が惜しまれる人物である。嘉永2年(1849年)11月、江戸にて没、42歳。

彼の作品は比較的多く残っているが、鶴、虎等の題材で力作が多い。

参考文献 編集

  • 『徳島の研究 近世篇Ⅱ』「阿波の画壇」河野太郎、1982年。