中川留雄
中川 留雄(なかがわ とめお、1897年(明治30年)6月7日[1] - 1956年(昭和31年)12月19日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓は松永[1]。
中川 留雄 | |
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生誕 |
1897年6月7日 日本 広島県 |
死没 | 1956年12月19日(59歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1919年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
経歴
編集1897年(明治30年)に広島県で生まれた[1]。陸軍士官学校第31期[1]、陸軍大学校第39期[2]、東京帝国大学政治学科卒業[2]。1938年(昭和13年)7月に陸軍省人事局補任課高級課員に就任し[2]、1939年(昭和14年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に教育総監部庶務課長に着任し[2]、12月1日には参謀本部庶務課長に転じた[2]。1940年(昭和15年)5月に広島陸軍幼年学校長に就任し[2]、1941年(昭和16年)4月に企画院調査官[2]、1942年(昭和17年)1月に陸軍予科士官学校幹事を歴任した[2]。
1943年(昭和18年)8月2日に陸軍少将進級と同時に陸軍士官学校幹事兼教授部長に着任し[1][2]、1944年(昭和19年)10月26日に駐蒙軍参謀長兼駐蒙軍情報部長に就任した[3]。
脚注
編集参考文献
編集- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。