中村 習輔(なかむら しゅうすけ、享保17年(1732年[1] - 文化13年8月20日1816年9月11日))は、江戸時代石門心学者庄八[1]。号は恭安

信濃国埴科郡下戸倉村(現長野県千曲市)生まれ[1]加舎白雄の下で俳諧を学ぶも[1]宮本天姥と争うのを嫌って俳諧から離れる[1]明和5年(1768年為登糸商いのため上洛し、同8年(1771年)に手島堵庵の明倫舎に入門[1]安永6年(1777年)頃から信濃を中心に心学の敷衍に務め[1]、天明6年(1786年)から郷里の自宅に全国で28番目の心学講舎「恭安舎」の設立を認められた[1]信濃で3921人、周辺諸国で242人の社友を獲得し、諸藩や天領代官の保護奨励を受けた。特に須坂藩では藩校「立成館」と並行して、藩立の心学講舎「教倫舎」を設立している。[要出典]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h 大橋敦夫「信州須坂藩心学資料とその言語」『上田女子短期大学紀要』第14巻、上田女子短期大学、1991年3月、23-43頁。 

参考文献 編集