中条家長

鎌倉時代の武将。義勝法橋盛尋(中条兼綱)の子。横山党小野氏の出身。従五位下、出羽守。右馬允。横山党中条氏2代。

中条 家長(ちゅうじょう いえなが、長寛3年(1165年[1]) - 嘉禎2年8月25日1236年9月26日))は、鎌倉時代武将。義勝法橋盛尋(中条兼綱)の子。横山党小野氏の出身。従五位下、出羽

生涯編集

八田知家の養子となり、藤原北家道兼流と称して苗字中条と改名した。治承・寿永の乱では源範頼の配下に藤次家長の名前が記録されており、おそらく中条家長であると推測されている。鎌倉では若宮大路沿いに自邸を構えていた。

治承8年(1184年)の一ノ谷の戦いでは、源範頼に従って参戦している[1]。また、文治5年(1189年)から翌6年(1190年)にかけての奥州合戦大河兼任の乱元久2年(1205年)の畠山重忠の乱の討伐軍にも従軍している[2]

建久元年(1190年)、源頼朝の許諾を得ず勝手に右馬允に補任され、頼朝の不興を買って辞官した。

建久6年(1195年)には毛呂季光と私闘を起こしている。家長は知家の養子となったことで思い上がり、尊大な態度が増えたために、これを咎めてきた季光との間に悶着を起こした[3]。この喧嘩のために、心経会が延期となった。頼朝は家長の養父知家に家長の出仕停止を命じている。建仁3年(1203年)、頼朝を奉る法華堂の奉行を務めた。

頼朝死後に政権を掌握した北条氏との関係は円満であったようで、嘉禄元年(1225年)、評定衆が設置されるとその構成員に抜擢され[2]、幕政の中枢に参画、御成敗式目の策定などに寄与した。

嘉禎2年(1236年8月25日寅の刻、72歳で死去。

北条氏の近親が多くを占める評定衆に抜擢されたことから、文臣としても高い能力を持っていたと評価されている[2]

脚注編集

[脚注の使い方]

出典編集

  • 安田元久 編 『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年。ISBN 978-4-404-01757-4 
  • 関幸彦; 野口実 編 『吾妻鏡必携』吉川弘文館、2008年、126頁。ISBN 978-4-642-07991-4 
  • 佐藤和彦; 谷口榮 編 『吾妻鏡事典』東京堂出版、2007年。ISBN 978-4-490-10723-4 
  • 埼玉県立歴史史料館 編 『中世武蔵人物列伝』さきたま出版会、2006年。ISBN 4-87891-129-8