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中野城(なかのじょう)は、山形県山形市中野にあった日本

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中野城
山形県
中野城跡
中野城跡
城郭構造 平城
築城主 中野満基
築城年 不明
主な城主 中野氏
廃城年 1622年元和8年)
遺構 なし(埋没)
指定文化財 未指定
再建造物 なし
位置 北緯38度18分18.7秒
東経140度18分15.1秒
地図
中野城の位置(山形県内)
中野城
中野城

目次

概要編集

中野城は、室町時代から江戸時代初期にかけて存在した城である。

延文元年(1356年出羽南朝勢力に対抗するため斯波兼頼陸奥国から下向し、最上郡を中心に勢力を広げる。3代最上満直の子中野満基が初めて中野に館を築いた。その後拡張され、最終的には東324メートル、西360メートル、南200メートル、北300メートルの堀と石垣に囲まれていた[1]。堀幅は5メートルから10メートル。東西南北に門があり、南門が大手口である。西の堀のすぐ西側を逆川(さかさがわ)が流れていた。また、北東には寺院(雲祥院:最上義定菩提寺)が配されている。

天正2年(1574年)より最上義守義光父子による天正最上の乱が勃発すると、中野城は義守方の有力な城として兵を繰り出し、義光と江俣で戦ったという。乱の終結後義守が隠居すると、義光の下で直轄領となった。

中野義時[2]が中野城に依り、兄の義光によって攻め滅ぼされたという後世の説話もあるが、同時代の史料には中野城が攻められたとの記述は見られない。

元和8年(1622年)最上氏が改易されると、中野城は廃城となった。

なお、現在では城は完全に消滅し、跡地に建つ大郷小学校敷地に石碑が立っている。

歴代城主編集

歴代中野城主別説編集

脚注編集

  1. ^ 『山形県中世城館遺跡調査報告書第2集(村山地区)』p.45
  2. ^ 実在しなかったとする説がある。

出典編集

  • 山形県教育委員会 『山形県中世城館遺跡調査報告書第2集(村山地区)』、1996
  • 北天の巨星 最上義光
  • 陸奥・出羽 斯波・最上一族
  • 奥羽斯波氏諸列記
  • 山形市史

関連項目編集