最上満氏
最上 満氏(もがみ みつうじ)は、出羽国の戦国大名、羽州探題最上氏の第7代当主。
時代 | 室町時代中期 - 戦国時代 |
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生誕 | 文安3年(1446年)? |
死没 | 明応3年7月14日[1](1494年8月14日) |
改名 | 中野満氏→最上満氏 |
別名 | 九郎五郎(通称) |
戒名 | 国盛寺殿月心峯光[1]大居士 |
官位 | 治部大輔[1] |
幕府 | 室町幕府羽州探題 |
氏族 | 出羽中野氏→最上氏 |
父母 | 父:中野満基[1]、養父:最上義秋 |
兄弟 | 満氏、中野義守 |
子 | 義淳、上山下野守妻[2]、八沼左馬妻[2] |
出羽中野氏の初代当主で中野城主、中野満基の子(最上義秋の子ともされる)に生まれたが、宗家の従兄・義秋に子がなかったため、文明11年(1479年)に最上氏を継いだ。
文明11年(1479年)及び翌文明12年(1480年)に、伊達成宗配下の桑折播磨守が寒河江氏を攻めるが、敗北し討ち死にする(菖蒲沼の戦い)。播磨守の子息は満氏を介して戦場の見える慈恩寺山中に松蔵寺を建立して供養したという[3]。
明応3年(1494年)に死去。なお生年には諸説ある。
脚注
編集周辺系図
編集最上満家 | 最上義春 | 最上義秋 | 満氏 | 最上義淳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
最上満直 | 中野満基 | 中野義守 | 上山下野守妻 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
八沼左馬妻 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参考文献
編集- 安西友則『山形戦国期』
- 片桐繁雄『北天の巨星・最上義光』最上義光歴史館、2002年
- 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001
- 東京大学史料編纂所データベース『最上家譜』『系図纂要』