丹羽氏賢
丹羽 氏賢(にわ うじまさ)は、江戸時代後期の大名。播磨国三草藩5代藩主。氏次系丹羽家11代。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文化8年11月25日(1812年1月9日) |
死没 | 嘉永7年9月28日(1854年11月18日) |
改名 | 勘助(幼名)、氏賢 |
戒名 | 天応院殿明艶英心大居士 |
墓所 | 東京都港区西麻布の長谷寺 |
官位 | 従五位下・若狭守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉、家慶、家定 |
藩 | 播磨三草藩主 |
氏族 | 一色丹羽氏 |
父母 | 丹羽氏昭、致(松平忠済の娘) |
兄弟 | 男、松、氏賢、氏謙、靱負之助、剛、屋津、澄、男 |
妻 | 本多忠顕娘 |
子 | 朔(丹羽氏中正室)、勘助、鶴松丸、婿養子:氏中 |
略歴
編集文化8年(1811年)11月25日、第4代藩主丹羽氏昭の長男として生まれる。文政10年(1827年)9月2日、父の死去により跡を継ぐ。12月1日、将軍徳川家斉に拝謁する。12月28日、従五位下長門守に叙任する。
文政12年(1829年)4月、日光祭礼奉行を命じられる。嘉永6年12月8日(1854年)に婿養子の氏中に家督を譲って隠居し、翌嘉永7年(1854年)9月28日に死去した。享年44。墓所は東京都港区西麻布の長谷寺。