井上 就貞(いのうえ なりさだ)は、戦国時代武将毛利氏家臣。父は井上元貞。山口町奉行を務めた。

 
井上就貞
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永禄12年10月12日1569年11月20日
別名 七郎三郎、善兵衛尉(通称
主君 毛利元就
氏族 安芸井上氏
父母 父:井上元貞
兄弟 元継就貞
女(井上元忠の正室)
養子:元忠(兄・元継の次男)
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生涯 編集

安芸井上氏井上元貞の次男として生まれる。毛利元就に仕え、合戦でたびたび武功を挙げて感状を与えられた。また、山口町奉行に任じられている。

永禄12年(1569年)7月、吉川元春小早川隆景が率いる毛利軍と大友氏の戦い(多々良浜の戦い)が北九州で続く中、尼子勝久山中幸盛らの尼子氏再興軍が出雲国へ侵入した。さらに同年10月11日大友宗麟の客将だった大内輝弘が宗麟の後援を受けて周防国へ侵攻した(大内輝弘の乱)。

10月12日、輝弘は秋穂から山口へ侵攻したため、わずかな兵を率いて就貞が平野口を、信常元実小郡口を守備し、就貞の軍は糸根峠で大内軍と遭遇して激戦を繰り広げたが、数に勝る大内軍に衆寡敵せず、就貞は戦死した。

元就と輝元は就貞の死を大いに嘆き、元就は就貞の兄・元継へたびたびそのことを述べており、元亀元年(1570年5月8日に就貞の娘に周防国吉敷郡小鯖のうちの15石を与えた。また、就貞には男子がいなかったため、兄・元継の子である元忠を就貞の娘と婚姻させ、天正6年(1578年1月23日に就貞の家督と所領[注釈 1]を相続させた[2][3]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ この時に元忠が相続したのは、安芸国では入江鹿原名の田1町5段大・畠2段、守常名の田6段小、山里白砂の田1町5段、矢野郷の16貫足と反銭免除。周防国では秋穂庄の28石5斗足、秋穂庄の代官役と塩浜役、山田郷の6石足、小鯖庄の15石足と出米4石[1]

出典 編集

  1. ^ 萩藩閥閲録』巻126「井上善兵衛」第14号、天正6年(1578年)1月23日付 井上元忠宛て児玉元良粟屋元勝連署状
  2. ^ 萩藩閥閲録』巻126「井上善兵衛」第12号、天正6年(1578年)1月23日付 井上元忠宛て毛利輝元書状。
  3. ^ 萩藩閥閲録』巻126「井上善兵衛」第13号、天正6年(1578年)1月23日付 井上元忠宛て毛利輝元書状。

参考文献 編集