井上 正晴(いのうえ まさはる、寛文4年(1664年) - 元文元年3月29日1736年5月9日))は、日本江戸時代前期から中期の旗本通称は伝左衛門、織部、頼母。官位従五位下、讃岐守、越中守。

略歴 編集

常陸笠間藩分家の旗本・井上正義横須賀藩主・井上正就の次男)の次男として生まれる。母は丹波園部藩主・小出吉親の娘。

天和3年(1683年)、徳川綱吉御目見する。

貞享3年(1686年)、父正義の死に伴いその遺領常陸国筑波郡の5,000石を相続する。後に所領の一部を筑波郡から同国内真壁郡新治郡に移された。

職歴は元禄8年(1695年)に定火消宝永2年(1705年)に小姓組番頭正徳元年(1711年)に書院番頭享保7年(1722年)に辞職。

元文元年(1736年)、73歳で死去した。墓所は丸山(現東京都文京区千石)の浄心寺。家督は養子の正房が継いだ。

家族 編集

兄に井上正員がいたが、貞享元年(1684年)に父に先立って死去した(享年22)。その子正房は後に正晴の養子となる。

妻は上総勝浦藩主・植村忠朝の娘。

子女は実子三人、養子二人がいる。

注釈 編集

  1. ^ a b 正美は三番目の実子だが、『寛政重修諸家譜』では四男とする。養子の正房を三男と数えるため。

参考文献 編集