服部長七

日本の土木技術者
人造石から転送)

服部長七(はっとり ちょうしち、1840年(天保11年)9月9日 - 1919年(大正8年)7月18日)は、明治期の日本の土木技術者

はっとりちょうしち

服部長七
生誕 1840年天保11年)9月9日[1]
三河国碧海郡棚尾村(現・愛知県碧南市)[1]
死没 1919年大正8年)7月18日[2]
愛知県岡崎市
職業 土木技術者
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既存のたたきを改良し自ら編み出した人造石工法(長七たたき)により治水用水分野の工事において業績を挙げた。広島県宇品港の岸壁工事完成の功績などにより緑綬褒章が授与されている[3]

経歴 編集

 
岩津天満宮(愛知県岡崎市)にある顕彰碑(2017年)

1840年(天保11年)に三河国碧海郡棚尾村(2013年現在の愛知県碧南市新川)の左官職人の家の三男として生を受ける。16歳での父の没後、一時豆腐屋を営むものの、翌年から左官修行を行い18歳より新川で左官業を始める。その後酢・菓子・酒の製造を営んだ後上京し、日本橋で饅頭屋を開業し繁盛したとされる[4][3]。しかし雨の日になると饅頭屋で用いている水道水の汚れがひどくなるため、自ら小石川水源地を見に行き、その不衛生さを見てからは上水道の改良を志すようになった[4][3]

1875年(明治8年)から1876年(明治9年)にかけ、宮内省発注の御学問所のたたき工事や泉水工事、時の権力者である大久保利通木戸孝允品川弥二郎らの屋敷のたたき工事などを手がけ大いに信用を得る[4][3]。また1876年には人造石工法を編み出し、黒川名古屋)開削時の樋門工事などの治水・灌漑工事で大きな成果を挙げている[5]。また、この時期に岡崎の夫婦橋工事を行った際、工事完成間近に岩津天満宮に詣で夢枕に立った仙人のお告げで無事の完成となったとの逸話もある[1]

1881年(明治14年)には人造石工法の海岸堤防工事への導入試行として、自ら高浜(愛知県)の服部新田開発を手がけ成功した。その後岡山県佐賀県の新田開発築堤工事で成果を上げ、1884年(明治17年)からは広島県宇品港(2013年現在の広島港の一部)の工事を請け負う[6]。宇品港の工事は5年3ヶ月を要した難工事であったが無事完成に漕ぎつけた。後の日清戦争日露戦争の際に広島が前線に近い重要拠点とされたのも、一つには長七により整備がなされた近代湾港としての宇品港があったことによる[6]。1897年(明治30年)に政府は長七に緑綬褒章を贈りその功を讃えた。

その後も長七は台湾基隆港改築工事、四日市港築港、明治用水取入口堰堤工事など数々の治水・護岸工事を手がけたが、コンクリート工法の普及など環境の変化もあったことから、1904年(明治37年)に事業から引退し[2]氏子として再興に努めていた岩津天満宮(愛知県岡崎市)に間借りする形で隠居した[3]。1919年(大正8年)、79歳で没する[注 1]。岩津天満宮には長七の功績を讃えた顕彰碑が建てられている[7]

人物 編集

長七は自らを「無学文盲」と称し、著書は残していない[1]。しかし、工事の現場で自ら工夫し情熱を傾けることでリーダーシップを発揮するタイプの人物であったとされる[1]。また、工事の進捗がはかばかしくない際には私財をなげうったとのエピソードも多く残されている。長七が1904年に事業から引退した理由の一つには、その義侠心から採算の合わない工事を少なからず引き受けたことにより服部組の経営が破綻状態であったことが挙げられている[8]

人造石工法 編集

 
四日市港潮吹き堤防
(三重県四日市市・2009年)

長七が発明した人造石工法(長七たたき)は、1876年(明治9年)に東京日本橋の三浦家の地下通路工事を手がけた際に編み出された[9]。三浦家の地下通路工事の際、大理石の隙間からしみ出した水を、長七の出身地である三河産の真土(まさつち)を石灰と混ぜて練ったものが水中でも固まることを発見したことによる。その後の改良を経た人造石工法は、風化した花崗岩からなる真土と石灰をおよそ7:3の比率で混ぜたものを用いる[6]。人造石工法により三河産真土の需要が高まったこともあり、別名として「三州たたき」の名も広がった[2]

「長七たたき」が「人造石(工法)」と呼ばれるようになったのは、1881年(明治14年)に第二回勧業博覧会泉水を見た農商務省の外国人役人が「この人造石は何ですか?」[注 2]との問いを発したことによる[1][4]。以降、長七は自らの仕事を「人造石」と呼ぶようになり、工法の広まりに伴い日本各地でも広く使われるようになった[10]

人造石工法が用いられた明治期において、セメントは既に輸入されていたものの高価であり大規模工事に使用するのは経済的に難しかったこと[5]、また当時のセメントは水中ではうまく固まらなかったことから[9]、治水・護岸といった分野の工事には用いることが難しい状況であった。これに対して長七の人造石工法は用いる材料が安価に大量に入手可能であったこと、前述の欠点により水中においてはむしろセメントを用いるより強固な構築物を築くことができた[5][4]。 また、関東大震災時、煉瓦積みの建築物は壊滅的な打撃を受けたのに対し、人造石構造物の損害は軽微であった。それはレンガをセメントで積んだ場合重力の関係でセメント中の水分が上部に集まりレンガの上面には十分に接着される一方レンガの下面のセメントは非常に剥離しやすく成る。それに対し人造石は非常に固練りで、構築時に叩き込むため全方向に接着力が得られ、全体としては強固な構造体を構築できるからであるとされる[11][4]

その後セメントを用いた工事が主流となり人造石工法を用いた工事は廃れることとなったが、「自然環境に優しく強度も得られる」という特性から、1999年にはカンボジアアンコール遺跡の一つバイヨン寺院の修復に人造石工法が用いられている[12][4]。 戦時中には物資の枯渇から日本本土の航空基地滑走路の材料としても採用されている。近年ではアメリカ軍も軍事作戦中の航空基地の材料としてアースコンクリートという類似の素材の研究を行っている。人造石は最後は自然に土に帰る性質を持っているので、発展途上諸国では地震に強く環境汚染の無い自足的インフラ整備の建材として、その他コンクリートやアスファルトの代替物質として見直されつつある[4]

人造石工法を用いた工事 編集

 
庄内用水元杁樋門
名古屋市守山区・2012年)

人造石工法を用いた工事が行われたのは主に明治期であるため、その後の改築工事により失われたものも多い。

  • 宇品港築港工事(広島県)
  • 服部新田堤防工事(愛知県)
  • 播但鉄道2・7工区(兵庫県)2005年時点[4]で現存
  • 生野鉱山貯水池堰堤(兵庫県)
  • 上野動物園石塀(東京都)
  • 第二回勧業博覧会泉水等(東京都)
  • 吉備浜新田堤防工事(岡山県
  • 大間港(新潟県佐渡郡)
  • 台湾基隆港(台湾)
  • 神野新田堤防工事(愛知県)
  • 牟呂用水(愛知県)
  • 熱田港護岸工事(愛知県)
  • 四日市港護岸工事(三重県
施工された潮吹き堤防は重要文化財に指定されている。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 『碧南人物小伝 - 服部長七 - (新川)人造石を発明した土木の神様』での記述によった。なお、生年月日と死没年月日より死亡日における満年齢を算定すると78歳となる。また、数え年では80歳没となる。
  2. ^ 山崎・前田『日本の産業遺産-産業考古学研究』p152では「人造石」という言葉はヨーロッパでは早くから用いられていた旨が記されている。

出典 編集

  1. ^ a b c d e f 碧南人物小伝 - 服部長七 - (新川)人造石を発明した土木の神様” (PDF). 教育部文化財課. 碧南市. 2017年6月24日閲覧。
  2. ^ a b c d “服部長七と人造石”. 田中覚 (日本石灰協会・日本石灰工業組合). http://www.jplime.com/bunkaisan/005/index.html 2017年6月24日閲覧。 
  3. ^ a b c d e 『碧南事典』1993.pp321-322.
  4. ^ a b c d e f g h i 田附楠人『兵庫県 JR西日本播但線に於ける「人造石」に関する調査研究』道具学会道具学論集第12号、2005年
  5. ^ a b c 『堀川沿革史』2000.pp84-86.
  6. ^ a b c 土木学会図書館 - 旧蔵写真館6.明治の港湾建設 - 宇品港”. 松浦茂樹. 土木学会. 2017年6月24日閲覧。
  7. ^ “岩津天満宮 - 境内案内”. 岩津天満宮. http://www.iwazutenjin.or.jp/keidai/index.html 2017年6月24日閲覧。 
  8. ^ 『技術文化の博物誌』p129.
  9. ^ a b 『碧南事典』1993.p209.
  10. ^ 『日本の産業遺産-産業考古学研究』p132.
  11. ^ 曽我杢祐 『セメント代用土と其用法』1926.
  12. ^ 碧南市:常設展「碧南の歴史と文化」 24年度-Ⅰ期 碧南の人物2「服部長七」”. 教育部文化財課. 碧南市. 2017年6月24日閲覧。
  13. ^ 一級河川矢作川水系 矢作川中流圏域 河川整備計画(原案)”. 愛知県. 2022年12月6日閲覧。
  14. ^ 『碧南事典』1993.pp458-459.
  15. ^ “名古屋市:庄内用水元杁樋門”. 住宅都市局都市計画部都市景観室 (名古屋市). (2012年9月25日). https://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/page/0000038592.html 2017年6月24日閲覧。 

参考文献 編集

  • 碧南事典編さん会『碧南事典』(碧南市)1993年4月
  • 末吉順治『堀川沿革史』愛知県郷土資料刊行会、2000年 ISBN 4-87161-070-5
  • 飯塚一雄『技術文化の博物誌』柏書房、1982年11月
  • 山崎俊雄・前田清志『日本の産業遺産-産業考古学研究』(玉川大学出版部)1986年3月

外部リンク 編集