今城媋子
仁孝天皇の典侍
今城 媋子(いまき たつこ、1809年11月24日(文化6年10月17日) - 1875年(明治8年)6月7日)は、仁孝天皇の典侍。父は権中納言の今城定成。初名は敏子。通称は満喜、おまき、今参など。
権中納言の今城定成の娘として生まれる[1]。1823年(文政6年)より仁孝天皇の後宮に仕え、掌侍となる。1832年(天保3年)に第五皇子の常寂光院宮を産むが夭折。1846年(弘化3年)の天皇の死去後は剃髪して孝順院と号した。1854年(嘉永7年)、召し使いの失火で内裏が類焼した責任をとわれ閉門となる[2]。
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