仙厓義梵

江戸時代の禅僧

仙厓 義梵(せんがい ぎぼん、寛延3年(1750年4月 - 天保8年10月7日1837年11月4日))は江戸時代臨済宗古月派の禅僧画家。禅味溢れる絵画で知られる。

仙厓義梵
1750年 - 1837年
生地 美濃国
没地 筑前国
宗派 臨済宗
寺院 聖福寺
空印円虚、月船禅慧
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概略編集

寛延3年(1750年)農民井藤甚八の子として美濃国武儀郡で生まれた。11歳の頃清泰寺において臨済宗古月派の法を嗣ぐ空印円虚(1704-1784)について得度し、臨済宗の僧となった[1]。19歳の時、武蔵国久良岐群永田(神奈川)の東輝庵に住する月船禅彗(1702-1781)のもとで修行をはじめ、その後印可を受け、月船が示寂した天明1年(1781年)32歳のとき同寺を出て行脚の旅に出る。[2]39歳より博多聖福寺の盤谷紹適の法嗣となる。住持を23年務め、一応の引退となる。88歳で遷化するまでに、多くの洒脱・飄逸な絵画(禅画)を残す。

本格的に絵を描き始めたのは40代後半になってからと見られている[3]。仙厓の絵は生前から人気があり、一筆をねだる客が絶えなかった。83歳の時、庭に「絶筆の碑」を建て断筆宣言をしたが結局やめられず、没年まで作品は残っている[4]

昭和初期に「仙厓ブーム」ともいえるほど仙厓の研究熱が高まった時期があり、多くの作品が各地から発見され、逸話や論説が乱立した[4]。仙厓の絵のコレクターとして出光佐三が知られ、そのコレクションは東京の出光美術館に収蔵されている。

祖死父死子死孫死編集

ある年のお正月、黒田藩の役人が聖福寺に年始に参り、仙厓義梵に「何かおめでたい言葉を書いて下さい」とお願いしました。仙厓義梵は「よしよし」と、すぐに筆をとり、「祖死父死子死孫死」と書いた。役人は顔をしかめて、「めでたいことをとお願いしたのに、これはひどい。縁起でもない」と怒り出しました。すると仙厓は次の様に言った。「そうかのう、まず爺さんが死ぬ。次に親父が死ぬ。次に子が死んで、その後に孫が死ぬ。順序正しく死んで行けば、家中に若死するものがないということなんだ。だから、こんなめでたいことはない」と言われました。[5][6]

エピソード編集

仙厓はその奔放な生き方をもって知られており、狂歌も多く詠んだ。有名なものとしては、美濃国において新任の家老が悪政を行ったことに対して「よかろうと思う家老は悪かろう もとの家老がやはりよかろう」という狂歌を詠んだ。後に美濃国を追放された際には美濃国と掛詞とし「から傘を広げてみれば天が下 たとえ降るとも蓑は頼まじ」とうたった。

また、絵を依頼に来る者が後を絶たないことについても、「うらめしや わがかくれ家は雪隠か 来る人ごとに紙おいてゆく」と誰もが来ては紙を置いていくことを自分の家を便所に擬えた狂歌を残している。

辞世の言葉は「死にとうない」だったという逸話がある[7]。ただし、同様の逸話は一休宗純にもある。

代表作編集

 
「○△□」 出光美術館蔵

関連項目編集

脚注編集

  1. ^ 衛藤吉則、石上敏、村中哲夫『西日本人物誌 [8] 仙厓』財団法人日本野鳥の会、2006年8月21日、16頁。
  2. ^ 「禅 心をかたちに」京都国立博物館等編集 日本経済新聞社発行 白隠仙厓と禅画 福島恒徳著 327p
  3. ^ 中山, 2003 & 第2章.
  4. ^ a b 中山 2003.
  5. ^ これは親死子死孫死などの説もある。また一休絡みでもある。『禅の本 無と空の境地を遊ぶ悟りの世界』学習研究社発行 1992年 27p
  6. ^ 臨黄ネット・法話と禅語 是心寺住職 辻良哲
  7. ^ 向谷匡史『名僧たちは自らの死をどう受け入れたのか』2016年、青春新書インテリジェンス、p.15。

参考文献編集

  • 森本哲郎 『この言葉!』、PHP新書、2000年、ISBN 978-4-569-60961-4、pp.72-74。
  • 堀和久 『死にとうない 仙厓和尚伝』、新潮文庫、1996年4月、ISBN 978-4101454214
  • 水上勉 泉武夫 『水墨画の巨匠 第七巻 白隠・仙厓』、講談社、1995年3月 ISBN 4-06-253927-6
  • 『出光美術館蔵品図録 仙厓』、平凡社、1988年8月 ISBN 4-582-21825-3
  • 中山喜一郎 『仙厓の○△□:無法の禅画を楽しむ法』 弦書房、2003年。ISBN 4902116014 

外部リンク編集