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艦歴
計画 昭和2年度艦艇補充計画
起工 1929年10月14日
進水 1931年4月7日
就役 1932年8月8日
その後 1940年8月29日沈没
除籍 1940年11月1日
性能諸元
排水量 基準:1,575トン 常備:1,705トン
水中:2,330トン
全長 97.70m
全幅 8.20m
吃水 4.70m
機関 式3号ディーゼル2基2軸
水上:6,000馬力
水中:1,800馬力
速力 水上:20.5kt
水中:8.2kt
航続距離 水上:10ktで10,000海里
水中:3ktで60海里
燃料 重油:230t
乗員 62名
兵装 50口径八八式10cm単装高角砲1門
毘式12mm機銃1挺
53cm魚雷発射管 艦首4門、艦尾2門
魚雷14本
MV式水中聴音機
備考 安全潜航深度:75m

伊号第六十七潜水艦(いごうだいろくじゅうななせんすいかん)は、日本海軍潜水艦伊百六十五型潜水艦(海大V型)の3番艦。

艦歴編集

  • 1929年(昭和4年)10月14日 - 三菱神戸造船所で起工。
  • 1931年(昭和6年)4月7日 - 進水
  • 1932年(昭和7年)8月8日 - 竣工。呉鎮守府籍。
    • 11月10日 - 伊66の竣工により、同艦と第30潜水隊を編成[1][2]
  • 1937年(昭和12年)12月1日 - 予備艦となる[2]
  • 1938年(昭和13年)6月1日 - 艦型名を伊六十五型に改正[3]
  • 1940年(昭和15年)8月29日 - 南鳥島南方沖で訓練中に原因不明の事故により沈没[1]
    • 9月25日 - 乗員の死亡を認定[1]

事故の状況編集

1940年8月29日、南鳥島南方沖で実施の連合艦隊応用訓練に参加中、水上機母艦瑞穂の搭載機の制圧を受け、急速潜航を実施した際に原因不明で沈没した。第30潜水隊司令奥島章三郎中佐、艦長の大畑正中佐以下88名の乗員と演習審判官1名全員が殉職した。原因は瑞穂の搭載機の状況報告から、後部昇降口の閉鎖がなされず、潜航直後から浸水が起こり後部から急速に沈下したと推定された[2][4]

歴代艦長編集

※『艦長たちの軍艦史』432-433頁による。

艤装員長編集

  • 福沢常吉 少佐:1931年11月14日 - 1932年8月8日

艦長編集

  • 福沢常吉 少佐:1932年8月8日 - 1932年12月1日
  • 水口兵衛 少佐:1932年12月1日 - 1934年11月15日
  • 大山豊次郎 少佐:1934年11月15日 - 1935年11月15日
  • 杉浦矩郎 少佐:1935年11月15日 - 1936年5月5日[5]
  • 浜野元一 少佐:1936年5月5日 - 1936年12月1日
  • 江見哲四郎 少佐:1936年12月1日 - 1937年11月15日
  • 横田稔 少佐:1937年11月15日[6] - 1938年7月4日[7]
  • (兼)河野昌道 大尉:1938年7月4日[7] - 1938年7月30日[8]
  • 戸上一郎 少佐:1938年7月30日[8] - 1939年3月20日[9]
  • (兼)河野昌道 少佐:1939年3月20日[9] - 1939年3月28日[10]
  • (兼)黒川英幸 少佐:1939年3月28日[10] - 1939年6月1日[11]
  • 黒川英幸 少佐:1939年6月1日[11] - 1939年10月24日[12]
  • (兼)大谷清教 少佐:1939年10月24日[12] - 1939年11月15日[13]
  • 大畑正 中佐:1939年11月15日 - 1940年8月29日殉職

脚注編集

参考文献編集

  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集19巻』潜水艦伊号、光人社、1997年。
  • 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9