伊東 祐豊(いとう すけとよ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将日向伊東氏島津氏の家臣。

 
伊東祐豊
時代 安土桃山時代 - 江戸時代
生誕 不明
死没 不明
別名 通称:駿河守
主君 伊東祐兵島津義弘
飫肥藩士→薩摩藩
氏族 河崎氏(川崎氏)伊東氏→川崎氏→伊東氏
父母 父:河崎祐長、養父:伊東祐氏
兄弟 祐豊祐為(権助?)、平右衛門宮徳丸
伊東義祐側室
九左衛門祐秀
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生涯 編集

河崎祐長の長男であるが、伊東平右衛門祐氏の養子となる。なお、実家は弟の大学が相続したという。慶長元年(1596年)、稲津重政(掃部)と不和になり、父と共に飫肥藩を出て大坂に滞在していたところ、島津義弘に召しだされて1千石で仕官し、川崎氏を称す。慶長19年(1614年)当時は、新納右衛門佐と京大坂蔵奉行を務め、大坂の陣の際に新納と加治木人数差出を担当する。寛永元年(1624年)に伊東氏に復姓。寛永7年(1630年)に吉田次郎兵衛と共に唐船奉行に就任する。嫡孫に刑部左衛門祐平。

自宅に島津家久が2度来訪し、「芦谷」という釜を賜る。和歌一首付く。「釣らるとも ふすへらるとも 心から よしやあしやは 人の言なし」

養父について 編集

「本藩人物誌」では祐豊の養父・伊東平右衛門祐氏は伊東六郎左衛門祐国の次男、伊東加賀守の子という。この加賀守が伊東義祐の従兄弟・祐安と同一人物かは不明。なお、「諸家大概」では木脇氏の項目で実父・川崎駿河守には触れているが、伊東平右衛門祐氏については触れていない。

参考文献 編集

  • 「鹿児島県史料集ⅵ 諸家大概・別本諸家大概・職掌紀原・御家譜」鹿児島県立図書館
  • 上野尭史「鹿児島士人名抄録」高城書房