伊達村良
伊達 村良(だて むらよし[1])は、江戸時代中期の武士。陸奥国仙台藩一門第五席・登米伊達家9代当主。11代藩主斉義・12代藩主斉邦の祖父。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 寛保3年4月29日(1743年5月22日) |
死没 | 天明6年12月2日(1787年1月20日) |
改名 | 政五郎(幼名)→村良 |
別名 | 式部 |
戒名 | 護法院殿隆山宗興大居士 |
墓所 | 宮城県登米市の養雲寺 |
主君 | 伊達吉村→宗村→重村 |
藩 | 陸奥仙台藩 |
氏族 | 伊達氏→登米伊達氏 |
父母 |
父:伊達吉村、母:高橋治昌娘・恵心院 養父:伊達村勝(田村村隆) |
兄弟 |
村匡、村風、宗村、田村村隆、村良、 和姫(池田継政正室)、 富姫(伊達村年正室)、 三保姫(稲葉正益正室)、 郷姫(片倉村廉正室)、ほか |
妻 | 側室:加藤氏、若生氏など |
子 |
田村村資、藤姫(石川村任正室)、 村幸、小原武親、 康(伊達村善婚約者?)、宗充、 祐(三沢村延室) |
生涯
編集寛保3年(1743年)4月29日、仙台藩5代藩主・伊達吉村の八男として誕生。幼名は政五郎。
宝暦2年(1752年)、同母兄で登米伊達家8代当主・伊達村勝が陸奥一関藩3代藩主・田村村顕の養嗣子として迎えられることになったため、村勝に代わって登米伊達家9代当主となる。家禄平均法を施行し、財政の立て直しを行った。養蚕の奨励、琵琶湖からの鯉や鮒の移入なども行った。
明和3年(1766年)、薩摩藩8代藩主・島津重豪への対抗意識から猟官運動に狂奔していた甥で7代藩主・伊達重村が、幕閣の歓心を買うために手伝普請を積極的に引き受け、その費用を捻出するため家禄30石以上の藩士に年貢米の一部上納を命じた。村良はこれを中止するよう諫めたが、重村の勘気を蒙って50日間の蟄居を命じられた。
安永2年(1773年)の安永疑獄に際しては、岩谷堂伊達村富から計画への参加を持ちかけられたがこれを拒否。事件発生を知ると直ちに居館の登米要害から仙台へ上り、重村に事件の再審査を請求した。
天明6年12月2日(1787年1月20日)死去。享年44。長男・村資は兄の養子として天明2年(1783年)に一関藩主となっており、四男・村幸が家督を相続した。
系譜
編集- 父:伊達吉村
- 母:側室・恵心院(高橋治昌の娘・倫)
- 養父:伊達村勝(田村村隆) - 同母兄。はじめ登米伊達家第8代当主。のち田村氏に入嗣し一関藩第4代藩主。
- 側室:加藤氏、若生氏など
長松院 ┣━━━━伊達宗村━━伊達重村 伊達吉村 ┃ ┏田村村隆 ┏田村村資━━伊達斉義 ┣━━━┫ ┃ ┃ ┗伊達村良━╋伊達村幸 恵心院 ┃ ┗伊達宗充━━伊達斉邦