余慶
919-991, 平安時代中期の天台僧。俗姓は宇佐氏。諡号は智弁。観音院僧正とも言われる。勅撰集『続千載集和歌集』に1首入集
余慶(よけい)は、平安時代中期の天台宗の僧。俗姓は宇佐氏。筑前国早良郡の出身とされるが、一説によれば日向国の出身ともいう。諡号は智弁。大雲寺(京都市左京区)の観音院にちなみ観音院僧正とも言われる。墓所も大雲寺に現存する。
よけい 余慶 | |
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延喜19年 - 正暦2年閏2月18日 (919年 - 991年4月5日) | |
諡号 | 智弁 |
尊称 | 観音院僧正、観音僧正 |
生地 | 筑前国早良郡? |
宗派 | 天台寺門宗 |
寺院 | 延暦寺、園城寺、法性寺、大雲寺観音院 |
師 | 明仙 |
弟子 | 勝算、慶祚 |
廟 | 大雲寺 |
略歴
編集比叡山の明仙から天台教学を学び、行誉から灌頂を受けた。天元2年(979年)に園城寺長吏となり、天元4年(981年)には法性寺座主となっているが、円仁の流れを汲む山門派の反対により辞任している[1]。永祚元年(989年)9月29日、延暦寺座主に就任するが[2]、10月29日、山門派に藤原在国が運んでいた任命の宣命(天皇の命令書)を奪取されてしまう[2]。また前夜には、灌頂のため兵を率いて比叡山に登っていたところ矢を射かけられ、合戦になっている[3]。同年12月27日、天台座主を辞任し、代わりに権僧正に任じられた[4]。当時の宣命の文中には山門派の門徒のことを獅子身中の虫と断じている。
円珍の門流である寺門流は余慶によって発展し、その後山門派・寺門派の対立が激しくなるきっかけとなった。
正暦2年閏2月18日(991年4月5日)、入滅、享年73歳[5]。長保3年(1001年)2月、余慶門徒が智弁の諡号を申請[6]。寛弘4年(1007年)3月19日、智弁の諡号を贈られる[7]。