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保田 八十吉(やすだ やそきち、1843年10月14日天保14年9月21日) - 1919年大正8年)3月16日)は、日本政治家広島市会議員、実業家資産家[1]、大地主[2]。醤油醸造業、縄屋[3](旧)広島銀行頭取[4][5]。広島貯蓄銀行副頭取[6][7]広島県農工銀行監査役[5]、同取締役[7]。広島桟橋取締役[5][6]広島商業会議所特別議員[6]。族籍は広島県平民[8]

人物編集

広島城下京橋町商家縄屋の分家(新宅)の3代目として生まれた。七兵衛の長男である[8]。新宅では醤油・酒の醸造業を営んでいた。

実業方面にあっては第百四十六国立銀行の取締役より頭取に選挙された[4]。養蚕伝習所を設立し製糸場を設けた[4]。英資聡明謹直温厚であり、諸般の事務を鞅掌した[9]。広島市実業界の大権威者であった[9]

家族・親族編集

保田家

広島市京橋町[6]

保田家は広島市第一流の門閥家であり、又名望資産とも兼有した[9]。祖先は、浅野家に従い紀伊国から広島に来た[9]。初代内蔵(後太郎右衛門)は浅野家に仕えた武士で、1619年、浅野家に従い来広。島原の乱で負傷して浪人となり、京橋町北側に間口二間半の家を買求め移住した。当初は農業のかたわら紺屋を商い、「縄屋」を家号とした。
醤油・の醸造を開始した時期について、『日本案内 正巻之中』によると「元禄の初年より醤油醸造を業とし、後年酒造業を兼ねた[3]」とあるが、『広島県紳士名鑑』には「酒造業に従事したのは元禄10年に創り、醤油醸造を開始したのも殆んど同じ頃[9]」とある。
  • 父・七兵衛(広島平民)[8]
  • 長女・クメ(広島平民、岩室忠次郎の妻)[8]
1871年 -
1873年 -
  • 同妻・キチ(広島平民、保田芳太郎の長女)[8]
1882年 -
  • 同長男・七兵衛[10](前名・東介[6]、酒、醤油醸造業[10]、広島県多額納税者)
1892年 -
  • 同長女・[6]
1906年 -
  • 同二女・[6]
1909年 -
  • 同二男・仲蔵[6]
1912年 -
1914年 -
1916年 -
  • 養子・奝吉[10](四女セイの夫、広島、尼子忠蔵の弟)[8]
1878年 -
  • 同妻・セイ[8]
1881年 -
1912年 -
親戚

脚注編集

  1. ^ 『全国五十万円以上資産家表 時事新報社第三回調査』10頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年9月24日閲覧。
  2. ^ 『広島県下役員録』2頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年10月13日閲覧。
  3. ^ a b c 『日本案内 正巻之中』1033-1034頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年7月5日閲覧。
  4. ^ a b c 『聖代偉績芳鑑』8頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年7月8日閲覧。
  5. ^ a b c 『日本全国諸会社役員録 明治33年』広島県之部505-506、515頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年7月8日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第5版』や119頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年9月24日閲覧。
  7. ^ a b 『日本全国諸会社役員録 第21回』下編960-961頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年7月8日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第4版』や100頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年9月24日閲覧。
  9. ^ a b c d e 『広島県紳士名鑑』125頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年9月24日閲覧。
  10. ^ a b c 『日本紳士録 第40版』広島ヤの部26頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年10月2日閲覧。

参考文献編集

  • 佐古豊次郎編『広島県下役員録』広島独立通信社、1909年。
  • 商業興信所編『日本全国諸会社役員録 明治33年』商業興信所、1893-1911年。
  • 商業興信所編『日本全国諸会社役員録 第21回』商業興信所、1913年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 『全国五十万円以上資産家表 時事新報社第三回調査』時事新報社、1916年。
  • 『広島県紳士名鑑』国民教育普及社、1917年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
  • 開国社編『日本案内 正巻之中』開国社、1919年。
  • 聖代偉績芳鑑編纂局関西支部編『聖代偉績芳鑑』聖代偉績芳鑑編纂局関西支部、1919年。
  • 交詢社編『日本紳士録 第40版』交詢社、1936年。