偰 列篪(せつ れっち、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えたウイグル人の一人。字は世徳。龍興路南昌県の出身。

概要

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偰列篪の祖先は代々国相を輩出した天山ウイグル王国の名家で、偰列篪の父の偰文質の代より先祖の居住していた「偰輦傑河(=セレンガ川)」に因んで「偰」を姓とするようになった一族であった[1]

偰列篪は1330年至順元年)の科挙で進士となり、翰林院を経て潮州路潮陽県ダルガチ、河南府経歴に任じられた[2][3]

ウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)の治世の至正年間、紅巾の乱が起こると南昌も包囲を受け、偰列篪とその家族も包囲に巻き込まれた。城が陥落すると偰列篪は降伏することを潔しとせず、妻子11人とともに城の池井に身を投げた。偰列篪の死後、生前親交のあった道士の陳白雲が偰列篪一家の埋葬を行ったという[4]

高昌偰氏

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[5]

脚注

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  1. ^ 『江西省南昌県志』人物志1,「偰列篪、字世徳、其先世高昌人、為畏吾国相。従其主居偰輦傑河、因以偰爲氏」
  2. ^ 『圭斎集』巻11高昌偰氏家伝,「子五人。……曰偰列篪、登至治庚午第、今従仕郎河南府経歴」
  3. ^ 『金華黄先生文集』巻25合剌普華公神道碑,「偰列篪、至順元年進士、儒林郎。潮州路潮陽県逹魯花赤。皆偰文質子」
  4. ^ 『江西省南昌県志』人物志1,「列篪由翰林出監潮州、有恵政。罷帰、民留之不得。至正間、紅巾乱、藩臣檄掌城鑰、列篪具牲酒酹祖墓、囑妻孥曰『城倘不守、当急赴池井、勿汚賊』。復往別道士陳白雲以身後為託。城陥、列篪投井死、妻妾子女死者十有一人。陳白雲並具棺槨葬之」
  5. ^ B.Ögel 1964 p.152

参考文献

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  • Bahaeddin Ögel. "Sino-Turcica: çingiz han ve çin'deki hanedanĭnĭn türk müşavirleri." (1964).
  • 安部健夫『西ウイグル国史の研究』彙文堂書店、1950年
  • 元史』巻193列伝80忠義1合剌普華伝
  • 新元史』巻136列伝33岳璘帖木児伝
  • 蒙兀児史記』巻45列伝27岳璘帖木児伝
  • 圭斎集』巻11高昌偰氏家伝