傅懿妃(ふいき、万暦16年(1588年) - 崇禎17年5月26日1644年6月30日))は、泰昌帝の側室。

生涯

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万暦年間、皇太子朱常洛(後の泰昌帝)の邸に入り、選侍(皇子の側室)となった。皇太子から寵愛を受けた。

泰昌帝が即位すると、詔書により妃に封じられたが、妃に冊封する儀式の際に泰昌帝が崩じた。天啓帝の即位後、傅氏たちは別宮へ追放されたが、後に呼び戻された。天啓4年(1624年)、光廟懿妃(泰昌帝の廟号の光宗による)に封じられた。崇禎13年(1640年)、孝純太后(元は傅懿妃と同じく泰昌帝の側室だった)の肖像を描かせるため、崇禎帝(孝純太后の実子)により温定の徽号が贈られた。

崇禎17年(1644年)3月19日、李自成軍が皇宮に進入すると、宦官と共に白洋淀(現在の河北省保定市安新県雄県の湖)へ逃れて避難した。同年5月26日(1644年6月30日)、農村で病没した。

子女

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  • 朱徽妍(寧徳公主)
  • 朱徽婧(遂平公主
  • 朱由栩 - 夭折。崇禎末年に湘懐王と追諡された。

参考文献

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  • 『明熹宗実録』
  • 『崇禎長編』
  • 『新安県志』