傅懿妃
生涯
編集万暦年間、皇太子朱常洛(後の泰昌帝)の邸に入り、選侍(皇子の側室)となった。皇太子から寵愛を受けた。
泰昌帝が即位すると、詔書により妃に封じられたが、妃に冊封する儀式の際に泰昌帝が崩じた。天啓帝の即位後、傅氏たちは別宮へ追放されたが、後に呼び戻された。天啓4年(1624年)、光廟懿妃(泰昌帝の廟号の光宗による)に封じられた。崇禎13年(1640年)、孝純太后(元は傅懿妃と同じく泰昌帝の側室だった)の肖像を描かせるため、崇禎帝(孝純太后の実子)により温定の徽号が贈られた。
崇禎17年(1644年)3月19日、李自成軍が皇宮に進入すると、宦官と共に白洋淀(現在の河北省保定市安新県・雄県の湖)へ逃れて避難した。同年5月26日(1644年6月30日)、農村で病没した。
子女
編集参考文献
編集- 『明熹宗実録』
- 『崇禎長編』
- 『新安県志』