光了寺 (古河市)

古河市にある寺院

光了寺(こうりょうじ)は、茨城県古河市中田にある真宗大谷派の寺院[1]

光了寺
所在地 茨城県古河市中田1334
位置 北緯36度09分07.117秒 東経139度42分39.916秒 / 北緯36.15197694度 東経139.71108778度 / 36.15197694; 139.71108778座標: 北緯36度09分07.117秒 東経139度42分39.916秒 / 北緯36.15197694度 東経139.71108778度 / 36.15197694; 139.71108778
山号 巖松山(岩松山)
院号 聖徳院
宗派 真宗大谷派
本尊 阿弥陀如来
創建年 鎌倉時代初期?
開山 西願円崇興悦
正式名 巖松山聖徳院光了寺
文化財 木造聖徳太子立像(県指定・彫刻)
法人番号 4050005005663 ウィキデータを編集
光了寺 (古河市)の位置(茨城県内)
光了寺 (古河市)
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歴史 編集

かつては武蔵国高柳村(現久喜市高柳)にあり、天台宗の「高柳寺」と称した。建保年間(1213年 – 1218年)、住職の円崇興悦親鸞の弟子となって、法名を「西願」と改め、浄土真宗の「光了寺」となる。のち五世・感悦のときに高柳から栗橋に移り、六世・悦信のときに栗橋から中田[2]に移ったと伝えられている[1][3]

当寺には鎌倉時代初期に源義経愛妾静御前が葬られ、遺品として守本尊・舞衣・義経の懐剣が納められたという伝承がある。

伝承 編集

静御前奥州平泉に逃れた源義経を追って、侍女の琴柱とともに古河の下辺見村まで来たが、ここで義経の死を知り、橋の上で奥州に行くか京に戻るか思案したのちに戻ることとした。しかし悲しみのあまり、伊坂(現久喜市栗橋)で病に伏し、亡くなったため、琴柱は静御前を当寺に葬り、墓の印として一本のを植えたという[4] 。この伝承は寺蔵の『静女蛙蟆龍御衣略縁起』によるが実物は現存していない。近世地誌古河志』や『利根川図志』の引用、あるいは古河市仁連の個人所蔵版本『静女蛙蟆龍御衣略縁起』(文政9年)が残されている[5]。 静御前が思案した橋は「思案橋」と呼ばれ、今でも下辺見の国道354号・向堀川上の道路橋が「思案橋」と名付けられている。

境内 編集

山門を入ると右手に宝物殿があり、文化財に指定された後述の聖徳太子立像・蛙蟆龍(あまりょう)の御衣、他にも、静御前の守本尊・源義経の懐剣・アブミ・伝弘法大師作の大黒天の灰像など寺宝が所蔵されている[6]。なお、寺宝見学には事前の予約が必要である[7]

文化財 編集

  • 木造聖徳太子立像(松葉太子像): 一躯、像高96cm、寄木造・玉眼・彩色。聖徳太子七歳の像。銘記・作者ともに不明だが鎌倉時代前期の特徴をもつ。太子像は沈鬱な表情が多いが、本作品は毅然とした中に明るさを漂わせており、美術的・年代的、また七歳像の稀少性からも貴重な作品と評価されている。茨城県指定有形文化財(彫刻)[8][9]
  • 蛙蟆龍(あまりょう)の御衣: 源義経愛妾静御前の舞衣。京都神泉苑において雨乞いの儀式で舞った際、後鳥羽院より下賜されたと伝えられている[3][7]。一領、縦93cm、横59cm。黒藍の地に、緑糸で平縫いした円錐多層宝塔、塔の上には金銀糸の日と月、下には菱型の瑞雲と飛鶴があしらってあり、遺例が少ない形式である。雲文の表現に中国時代の特徴が見られる[10]

交通 編集

鉄道
東日本旅客鉄道(JR東日本)宇都宮線古河駅東口から徒歩70分(約5.5 km)、タクシー15分、西口にて市内観光用無料レンタル自転車「コガッツ」利用可[11]
JR宇都宮線栗橋駅東口から徒歩35分(約2.7 km)、タクシー10分。

脚注 編集

  1. ^ a b 古河市史 民俗編』 833頁(光了寺)
  2. ^ 明治 – 大正期の利根川改修工事による移転以前の旧中田である。
  3. ^ a b 古河市史 資料 別巻』 316-320頁(古河志・光了寺)
  4. ^ 古河市史 民俗編』948頁(静御前と光了寺)
  5. ^ 『三和町史 通史編 原始・古代・中世』 393-398頁(静の終焉地異聞)
  6. ^ 古河市公式ホームページ・史跡と寺院・光了寺
  7. ^ a b 古河市観光協会オフィシャルサイトこがナビ・義経の愛妾 静御前
  8. ^ 古河市の文化財』9頁
  9. ^ 茨城県公式ホームページ いばらきの文化財 木造聖徳太子立像(松葉太子像)
  10. ^ 古河市の文化財』21頁
  11. ^ 駅西口前「花桃館」(まちなか再生市民ひろば)にて・古河市公式ホームページ 観光・歴史 古河市の観光パンフレットより

参考文献 編集