全 懌(ぜん えき、生没年不詳)は、中国三国時代の武将。からへと降伏した。揚州呉郡銭唐県の人。父は呉の名将として活躍した全琮。母は孫魯班。兄弟は全緒全奇・全呉[1]

生涯 編集

父の全琮が没すると、嫡子として銭唐侯の爵位を継ぎ、兵士を預かった。

太平2年(257年)5月、魏の寿春城にて諸葛誕が反乱を起こす。全懌は文欽唐咨、また全琮の従子の全静全端・全緝・全翩らと共に、諸葛誕への援軍として派遣され、魏の包囲網が完成する前に寿春に入城した[2]

11月、建業に残っていた甥の全禕全儀兄弟が、一族の間で争いとなった末、魏に亡命した。鍾会はこの状況を利用し、「自分たちが帰順したのは、全懌らが魏軍を撃破できないことが問題となり、処刑されそうになったため」という文書を全禕兄弟に作らせ、全懌らに送らせた。これを受けて全懌は12月に、数千人を従えて降伏。全懌が平東将軍・臨湘侯となった他、降伏した者は揃って、諸侯に封じられた[3]

羅貫中の小説『三国志演義』では、諸葛誕の乱で登場する点は正史三国志』と同じだが、全端の弟という扱いになっている(第112回)。

出典 編集

脚注 編集

  1. ^ 房玄齢等の『晋書』文帝紀にて「全懌の母は孫権の娘」と記述される。末弟の全呉も『三国志』全琮伝注『呉書』に同様の記述があることから、彼は全懌の同母弟となる。長兄の全緒、次兄の全奇の母は不詳。
  2. ^ 『三国志』魏書 諸葛誕伝・鍾会伝
  3. ^ 『三国志』魏書 諸葛誕伝・鍾会伝、呉書 孫亮伝も参照。魏書では全禕の名を全輝とする。