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分部 光庸(わけべ みつつね)は、江戸時代中期の大名近江国大溝藩7代藩主。分部家8代。

 
分部光庸
時代 江戸時代中期
生誕 享保19年(1734年
または元文2年11月29日1737年12月20日
死没 寛政2年8月26日1790年10月4日
または8月3日9月11日
あるいは8月23日10月1日
改名 甚三郎(幼名)→光庸→静好(法号)
別名 通称:隼人
戒名 自徳院殿静好義正大居士
墓所 東京都港区赤坂の種徳寺塔頭の松渓院
官位 従五位下隼人正若狭守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治
近江大溝藩
氏族 分部氏
父母 父:分部光命、母:今村氏娘
兄弟 光庸三淵澄鮮三淵澄盈施薬院宗顕中條康永命誠松平堅房正室、
角倉玄寿室、長岡栄之室、恒川忠栄
正室:大関増興娘・慈法院
側室:黒川氏娘
光賓(長男)、誠照寺庸行(次男)、
秋山清章(三男)、庸久(四男)、
安部信享正室、高木貞固室、
高木貞固後室、花房職喬継室
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略歴編集

享保19年(1734年)または元文2年(1737年)、6代藩主・分部光命の長男として大溝にて誕生。

宝暦4年(1754年)9月7日、父・光命の隠居により跡を継ぐ。

女院使接待役、勅使接待役など公家の接待役などを務めた。天明5年(1785年)3月10日、病を理由に長男の光賓に家督を譲って隠居、剃髪して静好と号した。

寛政2年(1790年)8月26日[1]江戸にて死去した。享年57。

脚注編集

  1. ^ または8月3日、あるいは8月23日。