劉孜
生涯
編集1445年(正統10年)、進士に及第した。1447年(正統12年)、山東道監察御史となり[1]、遼東巡按をつとめた。1449年(正統14年)冬、劉孜は亦失哈と施帯児を弾劾した[2]。1450年(景泰元年)、北京の朝廷ではオイラトの再侵攻を恐れて、南方への遷都の議論が起こったが、劉孜は遷都を意見する者を斬るよう上奏した[3]。御史の任期を満了したが、朝議の要請によりさらに1年留任し、直隷巡按をつとめた。ときに滄州での築城が計画されていたが、劉孜の意見により取りやめられた。山東按察使に抜擢された。
1460年(天順4年)、劉孜は山東左布政使に進んだ。1461年(天順5年)春、右副都御史となり、江南十府巡撫をつとめた。蘇州府と松江府の税制は、周忱の立法以後、たびたび変更されて混乱していた。劉孜は周忱の旧法を復活させた。1465年(成化元年)、応天府で飢饉が起こると、劉孜は飢民の振恤にあたった。さらに江北の飢民が食を求めて流入してきたため、劉孜は諸県の穀物倉を全て開くよう要請して救済にあたった。
脚注
編集参考文献
編集- 『明史』巻159 列伝第47