劉栄
劉 栄(りゅう えい、? - 紀元前147年)は、前漢前期の皇族。一時皇太子に立てられた。諡号は臨江閔王である。生母の姓にちなんで栗太子とも呼ばれる。
劉栄 | |
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続柄 | 景帝第一皇子 |
全名 | 劉栄 |
称号 | 臨江王 |
身位 | 皇太子→王 |
敬称 | 殿下 |
父親 | 景帝 |
母親 | 栗姫 |
略歴 編集
紀元前153年に景帝は劉栄を皇太子とした。だが、生母の栗姫は、館陶公主劉嫖(景帝の同母姉で、劉栄の伯母)と犬猿の仲であり、公主は王夫人が産んだ劉徹を皇太子に推した。また、栗姫自身にも不遜な言動があり、紀元前150年冬に劉栄は廃嫡されて臨江王に封じられ、彼に代わって弟の劉徹が太子とされた。生母の栗姫はあまりの悔しさで憤死した。
紀元前147年に劉栄は宗廟を建てる土地に宮殿を建てるという法律違反を犯して都に召喚され、中尉(首都警備長官)の郅都が臨江王を取り調べた[1]。臨江王は都に向かう前に、その途中で道祖神を祀り、それが終えて馬車に乗る時に突然その車軸が折れたという。これを見た江陵の長老たちは涙を流し「われらが王は二度と帰らないであろう」と言った。
臨江王は弁明書を書くための刀筆[2]を要求したが、郅都は与えなかった。魏其侯の竇嬰(竇后の従子)は臨江王の皇太子時代の傅役であったために、他の者を通じ刀筆を秘かに手渡した。郅都の厳しい取り調べに憔悴しきっていた臨江王は弁明を記し終わると渡された刀で自決した。
彼の非業の死を聞いた祖母の竇后は激怒して、郅都を些細な落ち度で罪に陥れようとした。そのたびに父景帝は郅都を忠臣として庇い続け雁門太守に転任させて匈奴に備えさせる任に就かせたが、竇后は息子の景帝に迫って「それでは、郅都は忠臣であっても臨江王は忠臣ではなかったのですか?臨江王は私の可愛い孫であなたの長男なのですよ。あなたは郅都ばかり構って、臨江王のことは何とも思わないのですか?」と叫んだ。母に根負けした景帝は仕方なく郅都を召喚して、これを処刑した。
劉栄には嗣子がなく、臨江国は廃されて南郡に改称された。