北村勝三
北村 勝三(きたむら かつぞう、1894年(明治27年)1月15日[1][2] - 1947年(昭和22年)8月15日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴
編集長野県出身[1][2][3]。菜種商・北村長次の長男として生まれる[1]。長野中学校(現長野県長野高等学校)、東京陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第58連隊付となる[1][4]。1916年(大正5年)9月から1917年(大正6年)1月まで陸軍戸山学校学生となる[1]。1918年(大正7年)12月、第12師団司令部付に発令され、1919年(大正8年)1月から1920年(大正9年)3月までシベリア出兵に出征[1]。この間、1919年6月に第14師団司令部付に転じた[1]。
1924年(大正13年)3月、歩兵大尉に昇進[1]。高田商工学校服務(配属将校)、歩兵第30連隊中隊長、陸軍兵器支廠員を務め、1932年(昭和7年)4月、歩兵少佐に進んだ[1]。陸軍兵器本廠付、兵器本廠員、歩兵第23連隊大隊長を経て、1936年(昭和11年)8月、歩兵中佐に昇進し東京幼年学校生徒監主事に就任[1]。陸軍予科士官学校生徒隊付を経て、1938年(昭和13年)7月、第109師団兵器部長に発令され日中戦争に出征[1]。1939年(昭和14年)8月、歩兵大佐に進み歩兵第58連隊長に就任[1][2][3]。宜昌作戦などに参戦した[2]。
1941年(昭和16年)8月、東部軍司令部付(早稲田大学服務)に転じた[1][3]。1944年(昭和19年)5月、独立混成第50旅団長に発令され太平洋戦争に出征[1][2][3]。同年8月、陸軍少将に進級[1][2][3]。メレヨン島(ウォレアイ環礁)の防衛を担当したが、補給が途絶え多くの餓死者・戦病死者を出した[2]。1945年(昭和20年)9月に復員[1]。復員後は郷里の長野県世話部長に就任し、復員援護業務に尽力した[5]。戦病死した部下の遺族への報告を終え、1947年8月15日に長野で自決した[1][2][3]。
親族
編集脚注
編集参考文献
編集- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 額田坦 著『陸軍省人事局長の回想』芙蓉書房、1977年。