北条治時

鎌倉時代末期の北条氏一門

北条 治時(ほうじょう はるとき)は、鎌倉時代末期の北条氏の一門。父は北条随時得宗家の傍流・阿蘇家の4代当主。阿蘇 治時(あそ はるとき)ともいう。

 
北条治時 / 阿蘇治時
時代 鎌倉時代末期
生誕 文保2年(1318年
死没 建武元年7月9日1334年8月9日)?
別名 阿蘇治時、阿曾治時、阿蘇弾正、阿曾弾正少弼
官位 従五位下弾正少弼
幕府 鎌倉幕府
主君 守邦親王
氏族 北条氏 阿蘇流
父母 父:北条随時、母:未詳
養父:北条高時
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生涯

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父随時が28歳の時に鎮西で誕生。鎌倉幕府第14代執権で、得宗家の総領である北条高時の猶子となる。

元弘元年(1331年)9月、元弘の乱において、北条高時が畿内に派遣した討伐軍に参加した[1]赤坂城など京都周辺で後醍醐天皇に呼応した討幕軍と交戦。

元弘2年(1332年)9月、楠木正成ら反幕府勢力討伐のために再び上洛した[2]。元弘3年/正慶2年(1333年)2月の上赤坂城の戦いでは、大将として出陣。若年であるため、軍奉行として御内人長崎高貞長崎高資の弟)が補佐。苦戦の末に水源を絶ち、これを陥落させた。

続いて楠木正成の本拠地千早城を攻めたが(千早城の戦い)、楠木勢の頑強な抵抗に遭って落とせず、5月になって京都の六波羅探題が陥落したため、討伐軍は自壊する。治時と高貞は大仏貞宗高直兄弟らとともに興福寺に篭り抗戦を続けた。

しかし、鎌倉陥落の報を聞き、6月5日に般若寺出家して降伏するが、建武元年(1334年7月9日京都阿弥陀寺[要曖昧さ回避]で高貞、貞宗、高直らとともに処刑された[3][4][5]。享年17。

処刑の日の7月9日は『太平記』より参考にしたものであり、他の史料では3月21日(『梅松論』・『蓮花寺過去帳』)、4月(『保暦間記』)、5月(『系図』)など時期が一致しないものが多い[3][4]

脚注

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  1. ^ 『太平記』巻三「笠置軍事付陶山小見山夜討事」
  2. ^ 『太平記』巻六「関東大勢上洛事」
  3. ^ a b 奥富敬之 著「北条高直」、安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト版)新人物往来社、1990年、542頁。 
  4. ^ a b 森幸夫 著「長崎高貞」、北条氏研究会 編『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社、2001年、118頁。 
  5. ^ 『太平記』巻十一「金剛山寄手等被誅事付佐介貞俊事」

関連項目

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先代
北条随時
阿蘇流北条氏
4代
次代
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