十文字信介
十文字 信介(じゅうもんじ しんすけ、1853年1月8日(嘉永5年11月29日[1]) - 1908年(明治41年)8月12日[2][3])は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。号に海山猟夫、尊農子[3]。
経歴
編集涌谷伊達家家臣[4]・十文字秀雄の長男として陸奥仙台藩領遠田郡涌谷(現涌谷町)に生まれる[1]。家は代々亘理氏に仕え砲術を能くした[1]。8歳にして小姓となり、のち砲術を習った[1]。その後、1871年(明治4年)上京し箕作麟祥の塾に入り英学を修め[3]、ついで海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)に学んだ[2]。津田仙の学農社編集長、広島県、宮城県各勧業課長、宮城郡長を歴任したのち、雑誌『農事新報』を発刊した[2]。ほか仙台区長を務め、鉄砲販売業を営んだ[3]。
1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では宮城県第3区から大成会所属で出馬し当選[2]。衆議院議員を1期務めた[2]。
1902年(明治35年)失明し、1908年(明治41年)脳膜炎に罹患し、同年8月12日、東京市神田区須田町の自宅で死去した[3]。
親族
編集脚注
編集参考文献
編集- 藻塩舎主人『宮城県国会議員候補者列伝』晩成書屋、1890年 。
- 大植四郎 編『国民過去帳 明治之巻』尚古房、1935年 。
- 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年 。
- 『宮城県百科事典』河北新報社、1982年。