司馬 徽(しば き、? - 建安13年(208年))は、中国後漢末期の人物。徳操水鏡。人物鑑定家として名を博した。豫州潁川郡陽翟県の出身。

司馬徽
後漢
隠士・人物鑑定家
出生 生年不詳
豫州潁川郡陽翟県
死去 建安13年(208年
拼音 Sīmǎ Huī
徳操
別名 号:水鏡
主君 龐徳公
テンプレートを表示

経歴 編集

荊州に移り住み、龐徳公を兄として仕えた。水鏡の号は龐徳公が名付けたものである。なお諸葛亮を臥龍、龐統を鳳雛と呼んだのも龐徳公であるという。司馬徽は龐統の才能をいち早く見出し、韓嵩徐庶向朗劉廙尹黙李仁などを門下生とした。柿沼陽平は、敦煌文書のなかに、司馬徽が後漢時代の「少傅」(皇太子の教育係)であったとの記載があることを発見し、司馬徽はたんなる隠士ではなかった可能性を指摘している[1]

劉備に「臥龍・鳳雛は諸葛亮と龐統のことだ」と教えたといわれる。

 
劉備、司馬徽と出会い教えを受ける。

荊州を支配していた劉表には仕えず、隠士として暮らしていた。『世説新語』の注に引く「司馬徽(別)伝」によると「よし」が口癖で、何を言われても「好」と答えていた。また、友人が子供の死を嘆きに来た時にも「好」と答えたという。司馬徽の妻がそれを咎めると、笑いながら「お前のいうことも、また好」と答えたという。劉表に司馬徽の登用を勧める者がいたが、こうした彼の態度を聞いた劉表は「世間の者はいい加減なことを言って(司馬徽を持ち上げて)いるが、ただの書生ではないか」と断ったという。司馬徽も劉表のことを凡人だと思っていたので、政争に巻き込まれないよう政治談義には手を出さず、このような態度を取っていたという。

中国では、こうした司馬徽の態度から生まれた故事成語に「好好先生」というのがある。定見を持たない、悪と戦う勇気が無いといった悪い意味で使われるという[2]

劉表死後、劉琮曹操に降伏すると、曹操に召し出された。曹操は大いに用いようとしたが、間もなく死去した。

現代の読み物などでは、「水鏡先生」は悉く老人の容貌で描かれている。ただし司馬徽の生年や年齢を推測できるような記述は少なく、龐徳公の10歳年小との記述が『襄陽記』にあるのみである。小説『三国志演義』の文中には水鏡の弟子である童子の台詞として「水鏡先生は龐統より5歳年上」という言葉があり、『三国志演義』では司馬徽を老人と見做していないことがわかる。

湖北省襄陽市南漳県に「水鏡荘」と呼ばれる景勝地があり、司馬徽の石像や祠堂が建てられ観光地となっている。中華人民共和国国家級風景名勝区

脚注 編集

  1. ^ 柿沼陽平『劉備と諸葛亮 カネ勘定の『三国志』』(文藝春秋、2018年5月、108頁)
  2. ^ 人民中国 好好先生